本年の業務は二十八日まで

 と、回覧が来た。去年は年末も正月も出ずっぱりだった覚えがあるが、今年はどうなることやら。別に社としての業務がどうであれ、小さな小さな会社なものだから、休みだろうがふらりと会社に来て酒飲みながらネットをしようが自由なものなのだけど(さすがに酒は飲まないが)。しかし、これが大きな企業だったら別なのだろうな。今日から仕事始めと思って出社したら休みだった、なんていう四コマ漫画的な光景が見られたりするんだろうか。
 そこで思い出すのが小学校時代。休みだと思ったのに学校がある、とか、体操着で集合なのに私服で出てしまった、とか、そういう恐怖がつきまとっていたっけ。いや、中高時代にもあったな。特に、どこかへ行く際の私服か制服か。あまりに気になったときは友人に電話したりしたものだ。そして、そいつもどっちかわかんなくて、また別のやつに聞いたりとか。
 これは、いかに制服というものが大きな力を持つかということなのかな。ある集団において、一人だけ違う格好をしてしまう恐怖。しかしこれは、上の方でも書いたけど学校の役割の一つらしい。ずいぶん前に読んだ三浦雅士の『身体の零度―何が近代を成立させたか』ASIN:4062580314ことと思う。
 日本も近代化とともに、徴兵などしてみる。すると、集まった百姓は格好もバラバラ、行動もバラバラ。それをまとめ上げなければ戦闘なんてできやしない。そこで、衣服の統一、行動の統一からはじめなければならない。すなわち、身体の均質化だ。そして、それは軍隊にとどまらず、近代的な職場や工場での労働にも意味を持つ。別に百姓が北野武の『座頭市』みたいにタップしながら仕事していたわけではないが、決められた黙って座って作業するというには、その下地、訓練が必要なのだ。そう、その訓練を現在においても担っているのが学校に他ならない。
 そして俺は、中高とそれなりに秩序の保たれた一貫校にいたわけで、訓練は十分なはずである。しかし、制服の恐怖はどこへやら、大学もドロッパウトして、茶髪にピアスにアロハシャツで就業時間にはてなダイアリーという現状である。男の人生の宿命の前には、教育など無力なのか。つーか、単なる落伍者なのか。それと、冬にアロハは着ない。それだけははっきりしておきたい。