遠足の思い出

 この際なので、小学生時代のジメジメした思い出を、ついでにもう一つ吐き出しておくことにします。何せこの季節ですし、私は根っからジメジメした人間なので。
 それは、遠足の思い出です。遠足の思い出といえば、ふつうどんなことでしょう。面白い場所に行ったとか、みんなでお弁当を食べたとか、お弁当を忘れた人におかずを提供したとか、そんなところでしょうか。しかし、私の遠足の思い出といえば、「ひたすら歩いた」「咽が渇いた」の二点に尽きます。いろいろな場所に行ったと思うのですが、本当にこの二つしか印象にありません。
 単に疲れやすくて咽が渇きやすいデブだった、というわけではありません。その頃の私は非常に軽量小型の人間で、トップスピードはありませんが燃費は良く、持久力にはそれなりの自信があったものです。それでも、ひたすらの行軍(と言ってしまいましょう)と咽の渇きに打ちのめされたのです。とにかく歩かされた、そして、水分を補給させてもらえなかった。未だに遠足姿の小学生を見ると、咽の渇きを思い出します。
 それもこれもやはり教師の計画がおかしかった、としか言いようがありません。遠足で長い距離を歩く体験、というのも大切です。むしろ、ちょっとくらい長い方がいいとは思います。しかし、途中で女子児童が脱落するのが普通だったり、通りがかった公園の水飲み場に児童が我先に殺到し、それを教師がトルチョック制裁(は言い過ぎですが)するのは行きすぎではないかと思うのです。だいたい、水分補給の必要性は、たとえ今から二十年前だって理解されててもおかしくはないはずです。そして、小学生が持ち歩ける水筒のサイズに限界があることだって(この行軍の恐ろしさを知って、皆大人用の大きな水筒を持ってくるようになりましたが)。
 私には未だにこの行軍の意図が理解できないでいます。あるいは、あまり言いたくはないのですが、私の通っていた小学校の教師は相当に日教組の活動に入れ込んでいたことと関係があるのでしょうか。とすると、あれは同志毛沢東の長征を追体験させようという目論見だったのか、などと邪推したくはなりますが(あくまで冗談です)。ただ、お金を使うことは悪いこと、という意識はあったと思います。それが、貸切バスなどの利用を極力避け、上の社会見学のような公共交通機関の利用、そして長距離徒歩移動という結果に繋がったと言えそうです。「西鎌倉小学校では貸切バスでディズニーランドらしい」なんて話を聞く度に、同じ市内のわずかな学区の違いでこうも違いが出るものか、と感じたものでした。
 果たして、六年間の日教組教育で私が得たものは何だったのでしょうか。思想面での幼い反発(父は日教組嫌いで、学校で教わることについてさまざまな註釈や訂正を加えました。それが行きすぎて私はやや右翼的な中学生になったのですが、父は吉本隆明信奉者だったのでした)というのを脇に置いておいても、その体育会的傾向、そして全体主義的傾向への反感は養われたと思います。後者に関しては彼らの望むところだったのでしょうが、彼らもまたファシストであるという根強い感覚を持つに至ったのは教育の失敗でしょう。Give the fascist man a gunshot!