『知の編集工学』松岡正剛-その3

生物とは情報そのものであり、生物の種とは、それぞれの生物たちがどのような情報編集をしているかという違いだ。

生物は情報編集によってこそ進化してきた。

 ここらあたりは、『空海の夢』でも語られていたことかと思う。そして、その情報編集の仕組みは三つある。「遺伝情報」、「免疫情報」(これに関して『免疫の意味論』(多田富雄)が薦められている。多田富雄といえば、先日NHKのドキュメント番組で取り上げられていた。体や言葉に不自由を抱えながらも、バランタインを飲ませろと奥さんに訴える姿は酒飲みの理想的なかっこよさだ。ほら、田村隆一の晩年の詩に描かれるような。『免疫の意味論』は実家の本棚にあったと思う)、そして「中枢神経系」。この後、脳における記憶と再生のメカニズムについて。そして、こうつけくわえられていた。

 脳とは、やはり精神(心)の座を管理するセンターである。
 そこには感情もあれば論理もすだく。遠い過去がよみがえることもあれば、目の前の淡雪のひとひらに感動して打ち震えることもある。
 そのような精神としての脳を、分子言語や電気回路だけで説明するのは、やはり無理がある。

 こないだのNスペ(http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20051107#p4)を思い出す。悲しみの電子回路を発見して、電気を流してうつ病を治療していたのだっけな。しかし、これを押し進めれば精神(心)が説明しきれるのか。 
 ……俺の日記を読み返すと、俺はどうも脳(精神、心)も化学物質と電気信号に還元したくなるタイプのようだ。その影響の元ははっきりしていて、カート・ヴォネガットに他ならない。ヴォネガットの根底にはつねにこれがあって、これに対する諦念と抗いがあるように思える。いや、抗いではないな。それを受け入れてこう、その上に……というような。こういうペシミスティックあるいはニヒリズム的な発想は、どこかしら俺の中二病に受け入れられたという点もあるだろう。
 しかし、所詮はそれもハードの話だ。「精神」を形作るものはソフトだ。そういう立場を著者は取っているようだ。うーん、ソフトというよりなんだろう。例えば俺のパソコンの修理は技術者に頼るしかないが、俺のこのハードディスクに収められた諸々のデータ、それを管理するファイル名、フォルダ構成……そういったものまでは物質で語りきれない。あるいは、それらをそのように編集するあたり、自己編集化的な何かが精神なのでありまたその自己編集化が神経中枢と体表を通り抜けて外に表されるあたりが人間の歴史そのものだとかそういう感じでありこのあたりも何もかもまったく自分の中で編集できないのは俺の脳の編集子に栄養が足りないからであろう。