『幻世』藤原新也

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 中国野菜は日本の野菜にくらべてなにか雑草に近いというか、野性味を帯び、歯ごたえに独特のものがある。とくに「空芯菜」はそうである。
―「空芯菜

 ある本に夢中になる。一読三嘆、この作者は唯一無二の天才じゃないかとすら思う。しかし、その本を読み終え、次の本を読むときにはそんなことを忘れ、次の次の本にさしかかるくらいになると、二つ前の本や作者への評価はかなり冷たいものになっている。決して、次の本が前の本を打ち消すというわけではない。単に、時間がもたらすものだ。俺にはそんな癖があって、そのおかげで脈略のない読書を楽しめる一方で、心底誰それのファンだ、という心もちにもなれない。しかし、冷めているときにあらためて読み返せば、電子レンジで加熱するがごとく熱さが戻る性質でもあるので、これはこれでなかなか便利なんじゃないかとも思う。
 さて、藤原新也。駅の改札の外の臨時古本屋でこの本を見つけた。ちょうど冷めている時だったので「どうしようかなぁ」とぱらぱら。すると、最初の話題が上の「空芯菜」。俺はその野菜、石川町駅前の野菜スーパーで見たことがある。中華街と接していることもあって、時折見かけぬ食材も取り扱っているのだ。その時は正体不明の空芯菜を買いはしなかったが、これを読めば正体がわかる。俺はそれ目的に買って、それでやはり藤原新也は面白い、と加熱された次第だ。
 以下、気になったところをメモ。

 かつて、ゴータマ・ブッダ亜大陸の上に在り方の標準を示すもろもろの<物>の下を旅し、触れ、聞き、そして見た。それは最後に彼が外界と一体となるという行為を経て彼の内に一定の標準を築くことになり、彼はその標準を≪言葉≫にたくした。その言葉は≪文字≫にたくされ、その途上の国々で変容しながら日本に伝来した。
 しかし、文字は言葉の生殺しであり、言葉は<物>の生殺しなので、本質は官能的なものから認識的なものにすり変えられている。

 ところで文字は言葉よりもさらに官能から遠いので、経を読む時、一定の律と音が与えられている。(略)それは<物>に近づくために正しい行為だと思う。
―「ヒトと物の間」

 ヒンドゥ教は「質・量、つまり物の宗教」であり、物から官能的・生活的に存在の在り方を学ぶ性質の強い宗教という。それゆえに、ヒンズーはローカルなものであって、伝来はしない。
 と、本にあった<物>とヒンドゥという本題は置いておいて、仏教について。空海が日本に持ち帰った密教は、その官能的なものに重きをおいたものだろう。『空海の夢』ではこのへん(id:goldhead:20050817#p4)だったかな。

内外の風気わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり

五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり

 というやつかな。また、文字による認識的な伝達を否定する(空海最澄の決別)あたりもそこらへんだろう。
 ……続きはいずれ。