弘法の泉

goldhead2006-04-20

 「トリビアの泉」を見ていたら、弘法大師が出てきた。「弘法筆を選ばず」ということわざがあるが、書の出来の悪さを筆のせいにしたことがある、という内容。これに関しては、こちらのページ(http://www.asahi-net.or.jp/~bv7h-hsm/koji/nousyo.html)に、補足も含めて網羅されているようだ。そうか、言われてみればそんなことわざもあったか。こういうツッコミもまた面白い(別に空海自身がボケたわけではないけど)。
 しかし、空海と筆か。そういえば陳舜臣の『空海求法伝 曼陀羅の人』(id:goldhead:20050830#p2)では、唐の筆の工房が舞台の一つになっていたっけな。そこで空海は筆作りを学んだりしたわけだ。そして、司馬遼太郎の『空海の風景』をぱらぱらめくってみたら、筆に関する記述が出てきた。

 「良工ハ先ヅソノ刀ヲ利クシ、能書ハ必ズ好筆ヲ用フ」
 とあり、さらに、文字によって筆を変えねばならぬ、文字には篆書、隷書、それに、真、行、草、藁の筆を変えねばならぬ、として、書における筆の重要さを説いている。瑣末なことのようだが、このことは、空海の論じたり行じたりすることが、つねに卒意に出ず、何事につけても体系をもっていることをよくあらわしている。
 体系だけでなく、道具まで自分で製作するという徹底ぶりは、かれの思想者としての体質がどういうものかをよくあらわしているといえるであろう。(下巻P325)

 なるほど、トリビアでも紹介されていた話である。カリグラファーとしての空海の真髄にも関わるような話なのかも知れない。
 とはいえ、トリビアでは「道具のせいで〜」と八つ当たりみたいに言われていたが、それはどうかあやしい。

 空海自身が書いた上表文においては空海はみずからをいやしめ、ひれ伏すがように謙恭であった。本来、漢文―とくに六朝文―は型式があって本心を書くよりも頭からうそを書くほうが名文になるという不思議な文章であったため、上表文をもって空海の真意をうかがうことなど、まったくむだであるといっていい。(下巻P181)

 ということなので、あの物言いもああいう形式上の何かなのかもしれないし、あるいは中国古典の故事由来あってのものやもしれない。とはいえ、「やっぱこの筆はあかん」というような愚痴だったかもしれず、まあそう考えても面白いのがこの御大師様の懐の深さのような気がしないでもないのであった。