※昨日(id:goldhead:20060211#p1)の結果
「満開の梅を愛でるなんてのは下の下、一輪咲いた梅に感じ入ってやっと豊玉宗匠、本当の風流ってもんは、つぼみを見て心に花を咲かすことです。だいたい、江戸っ子は開花なんか待ってられねぇんだ、それが粋ってもんじゃねぇのかい?」
……などと言おうにも、岡村梅林の梅はものの見事に一輪も咲いていないのである。途中立ち寄った岡村天満宮ではちらほら咲いていたものだから、そこそこ出会えるのではないかと思っていたが、この寒さは予想以上に俺にもウメにも厳しかった。
(写真は天満宮内の一角を占めるお稲荷さんである。寺社仏閣等においてお稲荷さんの「怖さ」は群を抜いているように思われる)
しかし、そのまま敗軍潰走と相成るところ救いの神あって、「国指定史跡三殿台遺跡」(http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/sandd/sad02.html)の看板。周りはここらあたりの横浜の町という感じで、あまりに唐突であったが、さればこそということになって、歩を進めた。進めたはいいが、長い長い上り坂を延々と歩き、小学校の横に入り急階段と急坂の二択。気合いで急坂を駆け上がって息を切らせた私を待っていたのは、遺跡入り口に立ち「あなたたち‘ゆずファン’?」と話しかけてきた横浜市三殿台考古館の職員。
俺はあっけにとられた。あっけにとられて、まったく意味がとれなかった。ゆずといえば、やはりあの二人組だろう。なにか、この住宅地の山頂で今からイベントでもやるのか? とわけのわからない混乱。が、話を聞くと(よく喋るおじさんなのであった)、ここがゆずのジャケ写に使われたからして、ゆずファンが訪れるようだ。とくにこの日(2月11日)は横浜でコンサートがあるので、そういった来客が多いらしい(後で調べると横浜アリーナらしい。遠いぞ)。「いいえ、私たちはゆずファンではありません。ゆずではなく梅が見たかったのです」。
遺跡は変な場所であった。住宅街の上ののっぱらにひたすら擬木で作られた住居跡が区切られている。真ん中には集会場のような建物が見えたが、覗いてみると本当の住居跡が保存されている。入り口の左手には小さな考古館があって、出土品などが展示されている。
と、その中にいたときのことである。先ほどの職員が二人の若い女の子(あるいは小学生かもしれない)を連れて、のっぱらの方に来たのである。そして、女の子二人が芝生の上に寝ころんだところを写真に撮っている。そうか、これが本当のファンか。あの寝ころんだポーズも何か意味があるのだろう。まあ、なんとも行き届いたサービスじゃないですか、と。
そういえば思い出したことがある。岡村天満宮に、どうも観光客らしき二人組の女性がいた。こちらは二十歳すぎた大人の女性だったが、なんとなくこの小さな神社にパンフレットのようなものを持って来ているのは不思議に思えたのである。いや、咲いていない梅林にのこのこ来た自分の方が不思議な馬鹿であることは否めないが。
……などと考え事をしていたせいでもないけれど、復元された竪穴式住居から出るとき、出入り口の梁にしたたかに頭を打った。いや、したたかなんて甘いもんじゃない、ガッコーンという衝撃。「頭蓋骨の縫合が外された!」という痛み。「なんで縄文人は背が低いんだ!」という八つ当たり。翌日になった今でも帯状のコブを感じる俺なのであった。
追記:調べてみると、岡村町というのは「ジャケ写に使われた」どころでなく、ゆずの二人の出身地そのものということらしい。こちらの洋菓子屋さん(多分前を通った)の地図(http://homepage2.nifty.com/friandor/yuzu/yuzu.htm)を見ると、昨日うろうろしたあたりは、まさにゆずゆかりの地巡りということになる。あるいは我々も「ゆずっ子か」と思われていたのかもしれない。さらに調べると、どうもそういったファンの中には問題を起こす人もいるようで(http://www.fureai.or.jp/~eri/mki/tatoeoka.htm)、考古館のおじさんの世話好きも、あるいは警戒によるものだったのかもしれない(帰りにも声をかけられたので、単に話好きかもしれない)。