薬屋で徳を買つた話

goldhead2006-04-05

 俺は五千円札を出して、ついでに末尾の八円を出したんだ。思へば、それが余計なことに他ならなかつたというわけさ。薬屋の親父は先ず俺に九千円のお釣りを返して来たんだな。それで、俺は生来の算数下手なものだから、まるで気にしないで受け取つて、財布に入れる一歩手前まで来たんだからいい加減な話さ。ふとそこで、今から財布に収まらんとする樋口一葉と、カウンタの上に置かれた樋口一葉が同一人物だと気づいたといふわけ。
 親父の方は残りの小銭の計算に一生懸命になつてゐるところだつた。思ふに、あいつも算数が苦手なんだらうに、何で電卓を使はないのか不思議なものだね。それで、俺は静かに事に気づいたわけだから、素知らぬ顔で仕舞いこむことだつてできたはずなんだ。最初の最初で「嗚呼」とでも声が出てしまへば、余計な逡巡をせずに済んだものだらうに。それでも俺は、瞬きのあひだに善と悪や損と得を戦はせて、「これ、間違ひですよ」と指摘したのだから偉いもんでせう。偉いとでも思はなければやつてられないといふのが正直なところなんですがね。
 それにしても五千円といふ金額は大きいものですよ。たまたま一緒にゐた上司は「今度からこの店に来にくくなるから、おまへの選択は正しいと思ふよ」などと云ふが、この世に薬屋はここ一軒といふわけぢやあない。俺は「良い事をした」などと宣つて鷹揚に構へてゐられるほどの金持ちぢやないのだ。それどころか、五千円の為には可成りの事までしてしまうんぢやないかという貧乏人だ。それが、みすみす五千円を見逃したのだから、なかなか悩みは尽きないといふわけさ。
 そこで俺は、薬屋で徳を買つたのだと思ふことにした。かやうに結論づけることにした。言ふなれば、五千円分の徳をあの世だか天国だかに積み立てたといふ事。あの薬屋に恩を売つても何か返つてくる機会も無いだらうし、「情けは人の何とやら」ぢやねえが、巡り巡つてゐるのを待つてゐたら、何回輪廻していいもんか分かつたものでもない。だから、薬屋とも関係ない来世か何かへの積み立て貯金さ。俺は損して徳を取つたといふことだ。それできつと、かういふ健気さをお釈迦様だかイエズス様だかはきちんと見てくれてゐるつてわけさ。しつかり閻魔様に申し送りしておいてくれたまへよ。
 しかし、一番得したのは他ならん薬屋の親父だな。俺に五千円分の徳を売つて自分の徳を積んで、そのうへ現ナマの五千円まで儲けたんだから、えらく得をしたものぢやねえか。何か俺は算数が苦手だから、どこか計算がおかしいのかもしれんが、俺はどうも算数が苦手な奴の方が天国に行きやすいんぢやねえかと思つてゐるんだがね。