芸術家と作品とその息子と

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070320-00000020-spn-ent

「こんなことになったのは吾朗が5歳の時、仕事ばかりで付き合っていなかったからだ。二度と吾朗みたいな子をつくらないために」

 さすが宮崎駿。あんたは万俵大介ですか。いや、大介さんとは違う。大介さんのように家や会社を守り、隆盛させようというわけではない。自分の作品のために鬼になる。アニメというと比較的おおぜいで作るようなイメージがあるけれども、これだけ個の人、職人的な人が巨匠なのだから、それはそういうものなのだろうか。富野御大はどうだったかと、君は。

 芸術家と作品の話。作品と作者の人格とは無関係だ、という論がある。人をいやすような作品の作者がその対極にあるような人であるかもしれないし、天上の美とも思われるような作品の作者が、アルコールまみれの薄汚い破滅型だ、ということもある。そういうステロタイプなものの見方は根強い。破滅型で人間失格の天才。作品と作者は分けて論じよ、と。……というのは、西洋的なものの見方だという話を最近読んだ。
 では、東洋的、日本的なものの見方でいくとどうか。「芸は人なり」。作品はその人であり、その人が作品である、という見方だろう。二にして一、一にして二とでもいうべきか。ともかく、不可分とする。作品は人に帰結し、人は作品に帰結する。分かれていないとする。
 となると、醜の描いた美、悪の描いた善はどうしよう。いや、どうもこうもなく、それはそれで人なりであっていいような気もする。美を欠いた人だから美を希求して作品にあらわれる……というのは単純な発想すぎるか。あるいは美ゆえの醜があり醜ゆえの美がある。その矛盾の方がおもしろいか。まあ、ようわからん。

 宮崎親子の話に戻ろう。ある作品をして、簡単に美だ善だ道徳的だと言えるだろうか。宮崎の人格と作品の乖離を指摘するならば(指摘したのは誰だ。俺だ)、その前にその作品が善や道徳的だといえるのかどうか検証しなくてはいけないだろう。果たして宮崎作品は家庭的か? 親子愛的か? と。もしかしたら、ねじれや矛盾など見つからないかもしれない。全国の家族に爆発的にヒットしたからといって、家族的とは限らないかもしれない。とはいえ、今度の『崖の上のポニョ』(「の」入りなのね)は親子的、家庭的になりそうな話である。しかし、自分の子殺しをしたうえである。やはり駿クラスになると一筋縄ではいかない。だから爆発的にヒットするのかもしれない。ところで俺は宮崎吾朗の『ゲド戦記』をまだ見ていない。