自転車を注文したんだけれど届くのはしばらく先になりそうなんだ

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20070319#p4
 自転車が欲しいという思いはいったん大人しくはなったのだけれど、自転車はあまり無駄にはならないという考えはあって、それなりの合理性を備えているようにも見られるので、いよいよネットで注文した。こないだの日曜日の話だ。欲しい欲しいの真っ盛りで注文したものでもないので、せいぜい晴れた日に届けばいいというくらいのものである。
 だいたい自転車を買うような話をしていて、俺はほとんど盗まれるのが前提になっていると指摘されたが、おおよそ俺は悲観主義者なのだからしかたない。とはいえ、このごろその悲観症もうそっぱちになりつつあって、とりあえずそういうポーズ、キャラにしておこうというくらいのもの。何かに対してすぐに不生の禅のひとかけらをめぐらせ(id:goldhead:20070409#p2)、次の言葉をぶつけるようにしている。

已起のものは続ぐなかれ、未起のものは放起するを要せざれ

 これは『誤解された仏教』(id:goldhead:20070328#p4)で紹介されていた臨済の言葉。パッと起こった念をうじうじと抱き続けたり、蒸し返したりするな。起こってないものをいちいち起こして放ったりしなくていいように、はじめから起こすな、ってな意味だろう。違っても構わない。悲観についても、怒りについても、自己弁護についても、同じ事だろう。なんとなく、禅か仏教かわからんが、いろんな言葉で同じ事を言う。俺はそう受け取る。
 俺は昔から、自分がものすごくキレている状況にあるときも、ものすごく頭の中は冷静だった。無意識で何かを壊したり、傷つけたりして、後から「なんであんなことをしたかわからない」……ということはなかった。その中で、ものすごく冷静に、自分がキレたことを示すには、ここにあるこれをこうしたりするのだろう、と、考えて、そうした。小さなころは違ったかもしれないが、物心ついてしばらくたってからはそうだ。そうわかってそうする。結果的にやったのだから客観的に俺はキレてろくでもないことをしたのかもしれないが、沸点のままの行動でもない。やってしまった上で言うのもなんだけれど、止めようと思えば止められたはずだという感触はあって不思議だ。
 思うに、その時の「やってもやらないでもいいが、やるべき」というのが、身びいきゆえに、我利のために、体面のために、打算のために、考えて出すものであって、本質的に出てしまうもの、出ざるをえないもの、ではない、ということではないだろうか。電光石火の反応、反発も、生理的とか生まれついてのものではなく、我が身びいきゆえの、後付けのもの。起こすか起こさぬか自分でどうにかできるていどのもの。そう考えれば、自転車を盗まれるビジョンくらいは簡単に打ち消せる。
 これを推し進めれば、ついつい相手の否定から入ってしまう俺の嫌な癖も未起のものとすることができるし、即座にかく嫌な汗や、ドキドキの動機もどうにかできる……だろうか。ビジョンや考えについては、別の考えでもやもやに消すこともできようが、あの瞬間の反応をどうにかできるだろうか、身体をどうにかできるだろうか。わからん。ただ、俺が電光石火の反応と思うことも、真の電光石火、間一髪ではないはずだ。ある僧が盤珪禅師に「不生禅でいると、うっかり、ぼんやりじゃないんですか?」と問うて、禅師は「後ろから錐でブッ刺されたらすぐに痛いと思うだろうし、寝ているところを起こされたら起きる、ぜんぜんうっかりではない」とかなんとか。それでおられるのかどうかは知らないが。