カープ禅

 昨夜の広島東洋カープは、九回表に廣瀬純外野手の劇的な本塁打で勝利を飾った。これをして、素直に「やったぜ廣瀬、さすがは六大学三冠王、神宮ならお任せだな! これを機に本格化してくれ! いつまでも大学時代の実績持ち出されるのもなんだしな!」と喜んでいいものかどうか。連敗を終わらせたとはいえ、この一勝は単なる気休めではないのか。一昨日嘆いて、昨日喜ぶ。それでいいのか。そんな思いにとらわれつつ、俺は中国新聞カープ情報を開いた。飛び込んできたのが次の一文である。
http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cs200707120317.html

 禅の世界に、「前後裁断」という言葉がある。過去にとらわれず、未来におびえず、今を全力で生きる。この教えが今夜の喜びのすべてである。

 禅! なるほど、「已起のものはつぐことなかれ、未起のものは放起せんことを要せざれ」の心! 今、ここが大切なのである。莫妄想、莫妄想。柳は緑、花は紅、勝てば喜び、負ければ嘆く。そうやってどんぐりへんぐりしていけばいいのだ。
 しかし、いきなり禅の世界をぶつけてくるとは恐れ入ったな中国新聞。ファン以上にカープに関わっていると、思わずそっちの世界にでも踏み込んでしまうのだろうか。あまり強くないチームを応援するのも大変なことなのだ。まあ、カープ自体、梵英心がいたりして、抹香臭いところはあるかもしれない。
 では、求道者とも言われる前田智徳はどうなのだ。どうも前田は、不動不惑ではなく、動じ、惑うタイプのように思える。決して孤高の天才などではない。自分の打撃がよければそれでいい、というわけではない。チームの状態が悪ければ主軸打者、キャプテンとして責任を感じ、自分の打撃が思い通りにならなければ、さらに沈む。迷える男である。そして、その迷いや後悔を、けっこうあからさまに見せてしまう。逆に、そこんところがいい、とも言える。
 果たしてこの前田から、迷いが消えたらどうなるだろう。もしその時が来たら、それはもうえらいことになるだろう。天上天下唯我独尊、活殺自在のバットさばき。思うがままにヒットを打つ。ヒットを打てなくとも引きずらぬ。苦悩や悲壮感をは一線を画し、自由自在の、あるがままの前田。そんな前田を見てみたい。もしも足が無事であればとうに……などとは言うまい。
 しかし、そんな選手ありえるのだろうか。と、イチローのことが思い浮かぶ。やっぱりあれはそういう人間だな。こと野球に関しては大悟している。そして、おおよそそういう人間は、あらゆる面において動じないところにある。そういう雰囲気だ。かつて優れた武人が優れた禅者であり、武士道と禅が深い関わりを示したように、現代の武人たるアスリート(大規模なプロスポーツやオリンピックに出てくるような人たちは、時代が違えばそういうところにいたかもしれない能力の持ち主だろう)にも、そういう点があるやもしれん。そのあたり、古武術を取り入れている上に、ある種の僧っぽさを漂わせる桑田真澄あたりなども考慮に入れつつ、見ていくべきかもしれない。