チベット8

ラップ問答

 一昨日だったか、日本テレビのニュースでチベットの寺院が紹介されていた。昨年の取材で、今回の弾圧で逮捕者が出たらしいという寺らしい。チベットの寺院映像となると砂曼荼羅などが思い浮かぶが、それ以外の姿を見ることができて興味深かった。
 それがなにかといえば、問答のシーンだった。森の中で若い僧たちが「この世は無常か?」、「無常だ」などとやっているのであるが、その様子が想像と違う。問う方は大きなモーションで手を叩きながら問いかけ、答える方も大声で言い返す感じ。両方とも立ち上がったり、ときにつかみ合いになったり、それをワイワイガヤガヤと大勢でやっているのだ。なんだかまるで、ラップのディスりあい、ラップバトル(?)みてえな感じ。いや、まさにそんな感じ。これは意外であった。禅僧が禅寺で公案をどうこうしてるのとは大違いだ。
 いや、ひょっとしたらこれ、『無門関』あたりの底抜けに苛烈な禅、それの現場って考えるとむしろしっくりくるかもしれない。ものっそい静かな竹林で一人座禅ってイメージばかりじゃあねえってところだ。日本でも、こういう問答やってるような宗派あったりするんだろか? つーか、しかし、チベット仏教って密教だよな。ちょっとウィキペディアあたり読むに、禅も少し入ってきてたみたいだけど、そのあたりはいつか勉強しよう。

チベットの終わりについて

 いきなりチベットの終わり、とは縁起でもない。しかし、そう思うところあった。何による終わりかといえば、中共の弾圧ではない。物質文明による終わりだ。今、チベットは貧しく、物質的には恵まれていない。とはいえ、あの欺瞞に満ちた(合成写真とか)鉄道も入り、また、このような件で世界の注目浴びよう。世界から支援の手も伸びるだろうし、たまに通りかかった関野医師によって医学も伝わろう。あるいは、漢人たちの手によって、否応なく近代化していくところもあるだろう。グレートジャーニーによれば、かなりの山地も開発されているらしい。それらによって、良かれ悪しかれ、あのチベットといえども、物質の波が訪れよう。人々が病気や餓えから無縁になる「良かれ」、物質文明によって彼らの精神文化が侵される「悪しかれ」。ものは、それを作り出した思想・文化をも運ぶと、藤原新也が書いてたと思う。楽しげにバイクにまたがる僧を見て、そう感じた。
 が、しかしこれは杞憂であってほしい。彼らが富と共に仏道を捨てると決まったわけではない。物心両面において優れた調和を見せる、われわれの手本になってくれるやもしれぬ。
 そしてなにより、虐殺や弾圧は言うに及ばず、餓えや病で苦しむ者に手を差し伸べるのに、その「悪しかれ」の影響を考えてはいけない。いや、ケースによっては寄付や援助がマイナスを及ぼすことがないとはいわないが、少なくとも今のチベットはそういう段階ではない。一番基本的な生命の危険にある。最低限のラインだ。その後のことは、チベット人が、自らの道を決めればよい。変な思いこみ、一方的な期待などしている場合ではないのだ。
 ……って、寄付してから言えよ。ちょっと待てよ、俺だってどうもワーキングプア、もうちょっと待ってくれ。一月と二月の給料がほとんど出なかったんだ。だから、ちょっと待ってくれ。いや、馬券が当たっておればよかったのだが……、馬券を買う金はあるのか、このクズめ。

関連______________________

  • 臨済録http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20070813#p1
  • 『誤解された仏教』http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20070328#p4……「『法』のためといって争うとき、それはもう断じて仏教徒ではない。仏教は争わない。常に相手を拝んで生きる」か。だからといって、人間として、あの騒動でシャッターに蹴りを入れていた僧をどうして責められようか。一方で、ダライ・ラマ法王の、つねに対話を求める姿勢は、「常に相手を拝んで生きる」というところを思わせる。中共のごとき暴虐と、この姿勢、一時的には前者が後者を蹂躙するが、後に生き残るのは後者であると信じる。