理系無知が毎日新聞の科学記事を読むとこんな感じなんで、ひとつよろしく

馬鹿が毎日新聞を読むとこうなる

電磁力を応用した高効率な小型発電装置を、相模原市の「ソフォス研究所」代表の木下博道さん(74)が開発した。

http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20090319ddlk14040128000c.html

 電磁力ってのはなんだろう。わからん。超電磁コマとかいうのを、スパロボで見た覚えがある。なんかビリビリするの?
 高効率な小型発電装置ってのは、まあなんか発電するのか。
 相模原市の「ソフォス研究所」ってのはなんだ。聞いたことないぞ。木下博道さん(74)って、発明おじいちゃん? みてえなの?

木下さんは「装置は使う場所に置くのでロスが少なく、電線などのインフラ整備が一切不要。太陽光発電風力発電に比べて格段と効率が良く、電力供給の分散化が図られる。地球環境にやさしく、低炭素社会にふさわしい装置だ」と話している。

 装置は使う場所に置くってことは、やっぱり発電器か。電線などのインフラ整備が一切不要ってのは、なんか大きく出たね。
 太陽光発電風力発電に比べて格段と効率が良く、電力供給の分散化が図られるつーのは、大発明じゃん。それをなんで、相模原のおじいちゃんが発明しちゃったの?
 ……という具合に全文書いていこうと思ったけど、思ったより長いのであきらめる。

発した発電装置は、円形アルミ板の周縁に磁石のN極、S極を交互に配列した回転体が大きな特徴。その周囲にコの字形の銅線コイルを配置する。始動時には市販モーターの助けを借りて回転体がコイルの間を動き始め、回転速度が増すと、ベルトでつながった別のモーターを回し発電する。

 ここいらあたりを読んでも、まず、形が思い浮かばない。だいたい、なんとなく、何を言ってるかといえば、N極とS極って言ってるから、リニアモーターカーみてえなの? みたいな感じ。ともかく、この時点で仕組みがまったく思い浮かばない、というか、文字が上滑りしていく。だいたい、回転体とかいうと、手術で体内に回転体を埋めこまれたと妄想した奴が、担当医をぶっ殺した事件しか思い浮かばない。たぶんここに書かれている件

これまでの計測結果によると、回転速度によっては、始動用モーターの消費電力の100〜1000倍程度も発電可能。また始動に必要な電力は400ワットモーターなら乾電池(単3)1本でも足りるという。

 このあたりももう文字上滑り。「400ワットモーターなら乾電池(単3)1本でも」と言われても、400ワットがなんの単位なのか(なんか電球とかに関係あるという気はする。アンペア? 電流? Ω?)、単3乾電池1本と比べて、そのなんだ、パワー? 強さ、強まり加減がどうなのか、さっぱりわからん。ただ、たった電池1本でもだぞ! という意気込みは伝わってくる。

研究所での実証運転では、回転体は最高で毎分1500回転し、直径80センチ(重さ約70キロ)の装置で毎時10〜15キロワット、同120センチ装置で毎時500キロワットを発電した。始動時に5・5キロワットのモーターを使った場合、1個100ワットの電球30個を点灯させていて3キロワットを発電できているのに、モーターの消費電力は2・6ワットしかなかった。

 ここらになると、もう数字がたくさん出てくるので、なーんのひっかかりもなく読める。というか、読んでないと言える。「10〜15キロワット」という数字がなんなのか、なんんか電球とかに関係あるということくらいしかわからん。後半になると、なんか算数の文章問題みたい。「では、電球の数が60個の場合、消費電力は何ワットでしょう? ただし、列車の長さは考えないこととします」みてえな。もう、俺、涙目になるから、目が勝手に逸れる。

特許出願中のため構造は極秘だが、電気工学や機械工学、物理学の研究者らが相次ぎ視察。元九州電力最高顧問で核燃料サイクルプルサーマル研究に携わってきた元国際原子力機関委員の松下清彦さんは「画期的な発電装置」と認めている。

 あ、算数終わった。特許出願中のため構造は極秘ってのは、なんかセンセーショナルな物言いだ。あんまり新聞記事という感じはしない。電気工学や機械工学、物理学の研究者らが相次ぎ視察。って言われても、街の発明おじいちゃんだって「研究者」にゃ違いないだろ。でも、松下清彦さんのプロフィールは気になる……。

松下さんはたびたびドイツを訪れ第一級の研究者と、この発電装置の理論的な解明に取り組んできた。松下さんは「ドイツの学者、研究者は発電装置として認めている」と話し、同研究所は「ほぼ実証された」として公開展示に踏み切ることになった。19日の会場は小田急新百合ケ丘駅近く。

 ドイツのどこ行ったんだ? 理論的な解明というのは、とりあえず動いてるけど、よくわかんねえってことか? ドイツのってのは、どうもあいまいだなあ。で、なんで小田急新百合ケ丘駅近くの住宅展示場でやるんだ? 住宅展示の邪魔じゃねえの? それとも、なんかそんなイベント? 風船とか配ったりすんの?

 ……てな具合。たぶん、その後に、この記事のはてなブックマークを読まなくても、信じるか信じないかの丁半博打やるんなら、信じない方に賭けるだろう。
 そりゃまあ、なんだ、こういう話って今までもあったろ。だいたい、そんなもんだろう。その、すげえ技術のブレイクスルーというのか、そういうのって、その、こういっちゃなんだけど、市井の74歳のおじいちゃんが考えつくようなこたねえだろ、と。新百合ヶ丘の住宅展示場で公開しねえべ? と。
 でも、一応、全国紙が採り上げているわけだ。科学欄でなく、ローカル欄(我が神奈川)だ。そこんところは少し考慮する必要がある。しかしだ、似たようなそういう記事、ネットで読んだ覚えあるぜ。あと、新聞記者の理系知識についてのリテラシーがねえって叩かれてるのも。

科学知識がなくても、リスクとリターンに対して意識があればいいんだ

 だからまあ、俺は、丁半博打するんなら、なんか眉唾っぽいという方に賭ける。千円くらいなら賭けてもいい。でも、五千円くらいになると、賭けから降りる。そんなところ。
 それでもって、まあ博打は違法だけれども、たとえば人生におけるリスクとリターンみてえな、そういうところから考えるに、別に俺はこれを信じようが信じまいが、別にどうでもいいというか。決断をせまられていない。科学に詳しそうな人の尻馬に乗って叩いたところでリターンはねえし、このおじいちゃんに「ありがとう」って言っても、綺麗に結晶化するかどうかわかんねえし。ただ、もしもなんかすごい発明で、すげえ普及したら、それを享受するだけの話だし、インチキだとしても、別に一銭も失わない。
 ただ、いつもそうとは限らない。たとえば、病気になったとき、保険医療を頼るか、ホメオパシーを頼るか、みてえな、そういう局面に立ち会うときもあるだろう。そのときは、賭けから降りられない(助かろうという意志があるとして)。まあ、そんときだよな、そんときだ。そんとき、この世界の科学を頼るか、なんかよくわからないものにすがるか……。要するに、みながそれなりに、あんまり死なない方を選ぶべきだというところに立つならば、そこんところで、科学などに関する基本知識が必要になってくるのかもしれない。あるいは、俺のように、そういったものにたいしてフォビア持ちだったりすれば、なんというか、常識的に考えて、とか、リスクとリターンがまともかどうか、とか、そのあたりの、リテラシーというのか、そういうもので補わなければいけないかもしれない。ともすればそれは権威主義とか盲信とかかもしれないが、俺が立つのは学問の場でも、科学の場でもなく、世俗の場なのだから、おおいに世俗の傾向を利用するまでのことだ。それを元に、何を、どこに、いくら賭けるか決めるだけなんだ。

未来を担う子供たちのための博打教育

 そうだ、やっぱり博打やんなきゃだめだ、子供の頃から。リスクとリターンってもんに、自覚的にならなきゃいけねえよ。万馬券はあんまり来ないから万馬券なんだって。そりゃ、単勝1.5倍の馬が飛ぶこともある。でも、考えてみろ、たった2分くらいで財産が1.5倍になるなんてむしのいい話、あんまりあるわけねえんだ。だったらみんな買っている。その分、飛んだときは、一瞬で賭けたもんが0になるんだ。そんで、そっから敷衍していって、株のリスクとリターン、銀行預金のリスクとリターン、そんなものから、だいたいの価値観みてえなもんが、こう、形成されていって、お子さまの成長によろしいかと存じます。
 なんつーか、競馬と株式市場、その他いろいろ、まあひょっとしたら人間の決めたルールのなかのおおよそのこと、同じオッズで動いているような、俺はそんな気がする。あまりに割りの悪いものもあるかもしれないが(それが競馬だと言われたらそれまでだが)、逆にすげえ得な、得すぎるものもない。ローリスクなら、ローリターン、そういうところで、なんかうまい具合の、運命の控除率みてえなもんは、あるように思える。そうじゃなかったら、みんなそればっかりやるだろうし。
 というわけで、あほみてえな詐欺に財産持って行かれるやつは、それまでに博打なんてしたことなかったんじゃねえかって思うぜ、俺は。いや、博打なのにそれに気づいていないんだ。賭けて、得る。たとえば、働いて、給料を貰う。これだって、自分の労働、能力、時間を賭ければ、契約通りの給料というリターンを貰えるだろう、そういう博打に賭けているにすぎない。いや、なんかそれだと、怪しげな会社とかいろいろあるか。えーと、たとえば、電車に乗って通勤・通学するのも、その電車に乗れば間に合うという最低限のリターンに、ローリスクな賭けをしているというだけだ。もちろん、博打だから、電車が運休することだってある。それを想定しておくのが、リスクマネジメントとかいうものだろうが、それだってリスクとリターンだ(とか書きながら、コストとリターンかな、とか思ったり)。

賭場もルールもてめえで設定するのが人生だ

 あー、でも、さっきのたとえ、病気、病気といっても、難病も難病、お前もうすぐ死ぬよ? って言われたとき、そんときのオッズ、リスクとリターンを考えると、あんまりすんなりと答えはでないかもしれない。「もう医療に頼っても3年後生存率が0に近いんだったら、いっそのこと大穴狙いで加持祈祷に頼ろうか?」と思うかもしらん。俺は、自分がそういう選択をしないという自信はない。でも、たぶん、どっちにしろ、痛くない方を、選べるものなら選びたい。そういうときは、ひょっとすると、生き延び方の無理な賭けに参加するより、死に方を選ぶような別の賭け、あるいは別の馬、そっちに目をつける必要があるかもしれない。そのあたりは、カネヒキリヴァーミリアンかで悩んでいるとき、一歩退いて四歳世代だ、そうだ、カジノドライヴだ、と、そういう発想。でも、サクセスブロッケンが勝っちゃう。それが人生というものだ。
 というわけで、自分で好きなように、賭場を、ルールを決められる、それが競馬その他限定的な博打と、人生の違いかもしれない。遅い馬に賭けたら勝ち、それで何かリターンを得たんだって、そういう好きな価値観をも設定しうる。それがやっかいだけれど、そこがおもしろいのかもしれない。ともかく、そのあたりだって、自分が自分の賭けに自覚的でないとはじまらない。
 それで、いずれにせよ、博打ってのは、負けざまが大切なんだ。人生もそうありたい。……って、話が45ワットくらい逸れたからここでおしまい。

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