或る町のダイエー

 語呂がいいからダイエーにした。本当は或る町のヨーカドー。或る町のヨーカドーの思い出を書く。
 むかし、まだ俺に実家があって、両親と暮らしていて、弟もいて、南紀白浜に家族旅行に行ったときのことだ。小学何年生だったか。それほど小さくはないが、大きくなってもいなかった。
 南紀白浜和歌山県。俺のかつての実家、鎌倉からは遠い。どうやって行った、マイカーで行った。両親ともに運転するとはいえ、無茶をするものだ。ともかく、相当に遠いところに来た、という感覚だった。
 その、南紀でのことだ。急に大雨に降られた。ちょっと道路を走るのが大変だ、という具合だったかどうか、避難するような形で、イトーヨーカドーに入った。
 その、イトーヨーカドーだ。正直に言って、俺の南紀白浜での思い出といえば、これくらいしかない。大きな水族館に行ったような気もするが、それは別の旅行だったかも知れない。ともかく、はっきりと覚えているのは、大雨の中、南紀白浜、家からはるか離れた土地の、イトーヨーカドーに入ったことだ。
 イトーヨーカドーで、何か強烈な体験をしたのか? ノーだ。とくに目的もなく、ぶらぶらと店内を歩き、片隅の飲食コーナーでアイスクリームか何かを食べたとか、その程度のものだ。だが、俺はあのヨーカドーを忘れられない。
 いや、あれは強烈な体験だったのだ。ヨーカドーといえば藤沢のそれ、たまに大船。もちろん、全国チェーンであることは知っている。別に、和歌山でヨーカドーを見ても驚きはしない。
 しかし、だ。その店内でうろうろしている自分。この、非日常。すごい非日常なんだ。いや、当時はそんな説明はできなかった。でも、今考えればそうだ。たとえば、鎌倉に住む誰かが、和歌山の観光名所に行く、というのなら、それはたしかに日常ではないが、かといって、旅行に行けばそうだろうという予定調和だ。しかし、ヨーカドーはどうだろうか? 地元の人が、日々訪れるヨーカドー。そこに、その土地とほとんど縁のない俺。俺の家族。こっちの方が、ずっと強烈に、非日常じゃないのか。
 観光地とは違う。店の人は、こっちが鎌倉から来たなんて知らない。俺も、普通の地元の子供と思われているかもしれない。観光地や旅館、ホテルなら、遠方から来なすったお客さん。それは普通だ。でも、イトーヨーカドーにいるというのは、ものすごくありえない話ではないにせよ、なんというのだろう、そりゃあ旅先で日用品が入り用になることだってあるだろう、でも、でもだ、なんかちょっと、その、ヨーカドーという、慣れ親しんでいる場所、でも故郷からすごく遠い、ああ、説明しがたい。でも、すごくふわふわしたような、不思議な、俺が俺でなくなるような、別の俺、別の人生、そんな異世界に入り込んでしまったような、あの感覚……。
 そうだ、その感覚があって、俺は、汐入のダイエーに行っても、洋光台のオリンピックに行っても、たまプラーザのイトーヨーカドーに行っても、そのくらいの距離であっても、なにかどこか、あの日のイトーヨーカドーの気持ちが想起されるんだ。俺はその気持ちが好きなんだ。
 ……そういうわけで、俺はこれからも、どこか遠くに行っても、ダイエーイトーヨーカドーに入るだろう。君の町のダイエーに行くこともあるかもしれない。でも、俺はたぶん、すっかりそのあたりの住人のような顔をして、「ちょっと買い物に来ました」みたいな顔をしているはずだ。だから、見つけてもそっとしておいてほしい。それが俺の、お願いだ。