い・ろ・は・す を握って考えた日本の未来

俺はどちらかというと「ロハス(笑)」と、冷笑的なスタンスの人間だ。いや、俺はほとんどのものに対してそうかもしらん。いや、それはどうでもいい。いろはす(中黒が入るのが正式だろうが、ケータイからでは辛い)についてだ。
あなた、いろはすのペットボトルを握ってほしい。握らずともいい、普通に手にとり、水を飲んでくれたらいい。すぐに気づくはずだ、こいつ、えらく脆弱だ、と。ベコベコいって頼りないと。
俺はこれ、一つの突破だと思うのだ。こいつは、おそらく、今まで日本の消費者が求めていた(と企業が考えていた)ペットボトルの性能を、満たしていない、ということだ。フニャフニャでもいいじゃねえか、ということだ。
もちろん、もちろんだ、これが、ロハスとやらの立派な目的を持ち、裏では相当ガチガチの技術改良やマーケティングが行われているのは間違いないだろう。単に、流行が、ペットボトルの質より、環境にシフトしただけかもしらん。
でも、だ。俺は飲んでるだけでベコベコいいだすこの質感に、なんとも言えぬ変化を感じた。ペットボトルはベコベコのフニャフニャでもいい。人間は裸でもいい。ほら、なんというか、このケースでは環境問題が質感を上回った(と企業がアピールすることにメリットを感じている)という、極めて合理的な判断がある。あるけれども、実際に手にするのはベコベコのペットボトル。ベコベコでも、いいじゃねえか。
単に安かろう、悪かろう、それもいい。何か別の価値観が、苛烈な要求を上回る、その可能性、それがいいと思う。もっと、だらしなくてもいい、いい加減でいい。もちろん、そう見える商品の裏にある、強烈な技術改良、あるいは熾烈な値下げ競争、それはおもしろくない。でも、このベコベコのペット、えらくだらしない手触り、これが許容されるのであれば、なんかもっと楽になれないか、自由になれないのか、そんな気がしてしまうのだ。