小さいことが気になってしまう三題

シートベルトin肥後という男パート2

 「アメトーーク!」のいいところは、少々難ありかもしらん企画でも、一年かけて第2弾を作ってしまうようなところであって、肥後克広の特集。最後に見せてくれた「シュールなダチョウ倶楽部」まで、非常に楽しませていただいた……のだけれども、ひとつ気になった点が。それは、肥後が車を運転するシーンなんだけれども、断言はできない、できないけれども、なーんかシートベルトしてないように見えたわけ。
 で、そのとき俺がどう頭の中で思うかというと、「なんだ、けしからん! 抗議してやる!」ってことじゃなくて、「あー、こんな小さなミスで、なんかこの番組とかリーダーがケチつけられたらもったいないなー」ってこと。そんで、「編集してて、スタッフ気づいたのかな? 気づいた上で、オーケーしたのかな? それとも、見過ごしかな?」とか悩んじゃうわけ。
 でまあ、それはともかくとして、たとえば俺は、ドラマの中の緊迫感あるシーンで、なんか急いで車で逃げるのに、しっかりシートベルトするの見たりすると、げんなりするわけで。で、そこで考えるのが、「ひょっとすると、『けしからん!』人間の声もあるだろうけれども、こういう風に、小さなことをいちいち気にしてしまう人間が、ドラマにシートベルト着用義務を持ち込んでる可能性はないか?」というようなことであって、どのように? というと理路もステッチもつながらないが、なんとなく、「気にするな!」というあたりでいいんじゃないのか、とか思うこれをこう公開する時点で、やはりまたこれは社会を重苦しくしていくのか? という自己矛盾。

メッカin産経新聞の記事

足場工の男は20年12月7日未明、ドリフトのメッカとして知られる飯能市上名栗の通称「山伏峠」で危険なドリフト行為などをしたとして、道交法違反(共同危険行為)の現行犯で逮捕されていた。

http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/saitama/090701/stm0907011927021-n1.htm

 たとえば、なんか誰かの原稿が俺の手元に来て、観光案内でもなんでもいいけれど、「メッカ」って使ってたら、俺はもう自動的に「なんかいい言葉ねーかなー?」って言い換え考えはじめる。メッカはねーよ、今どき、みたいな。それは、こないだハルヒのアニメを見ていても思った。でも、これ、用字用語にはうるさい新聞社の原稿で、普通に使ってるよって。
 うーん、どうだろうね。ただ、正直、こういう用法のメッカという言葉には、なんというのか、一つばっちり当てはまったイメージがあって、実のところ、「ドリフトのメッカ」以上に「ドリフトのメッカ」をあらわす、シンプルな言葉ってあんまり思いつかない。いや、俺の語彙というか、表現が貧困なだけかもしれないけれども、なんかこの、雑多な感じもあるような、けっこう俗な雰囲気の中心地みたいな、行楽の〜、登山の〜、ギャンブルの〜とかになると、どうも「メッカ」のイメージが強い。それはたぶん、子供のころ、イスラームのメッカを知るより前に、この言葉をマスメディアや日常会話で刷り込まれてるところがあるんだと思う。なんか、俺の中では、人でごった返した海水浴場の遠景が思い浮かぶ。これ、「聖地」と言い換えると、ちょっと雑多な部分が減るように思える。
 ……が、もちろん、ムスリムの人らがさ、この例えを嫌がるだろうし、あんまりポリティカリーにコレクトじゃねえなってのは、ある。もちろん、俺はイスラームに向き合ったことも、ムスリムの人と話し合ったこともないわけであって、やっぱりそれは、直接の声や抗議に対する予防というよりも、「メッカって言い換えた方がいい(らしい)ということ知らないの?」という目をおそれるところもあったりして、そうすると、ますますイスラーム不在なわけじゃん。「嫌がるだろう」でさ。でも、俺としては、いずれにせよ、比喩としてのメッカは使えないなってことになって、でも、こういうところから表現の幅が狭まるのかとか思いつつも、べつにたとえば産経が「メッカ」使ってても、べつに大きな問題にはなってないようだしさ。まあ、別に俺だって、この日記で使う分には使うだろうし、でも、たとえば仕事で赤を入れるってのは、じゃあそれはどういうことなんだって、事なかれ主義か、表現の幅を狭めているか? みてえな。じゃあ、実際メッカってどのくらい抗議されているんだろう、みたいな。でも、いちいちそこにあたれないじゃないか、という。もちろん、それは不誠実と責められることだろうが、しかし、そこまで労力を割けない。まあ、そのあたりで、新聞社や、新聞社以外も、どっかしらの新聞社の用字・用語辞典に準拠したりするのだけれども、誠実ではない。

参考______________________

日本語のもとでは長らくメッカと呼び慣わされてきたが、近年は学術的な分野を中心に標準アラビア語の発音により近いマッカが好まれつつある[1]。サウジアラビア政府は、1980年代に当市の名前の公式な英語訳を、西洋人が以前から一般に用いてきた綴りである Mecca IPA: [ˈmɛkə] から Makkah IPA: [ˈm〓kə] に改めた。

 マッカ? 知らなかったな。英語表記経由でカタカナ語にするとなれば、まさにマッカだな。じゃあ、そちらのマッカはマッカで、メッカの言葉だけくれませんか。……って話でもねえか。ただしムスリムサウジアラビア政府はこのような用法を好まない。の出典はどこなんだろうか。ところで、Googleって「メッカ」って検索すると、勝手に「メーカー」の結果混ぜてきやがるね。

「メッカ」という言葉は、宗教的な意味に限らず、重要な場所、人を引きつける場所、あるいはどっと押し寄せた人々を表す言葉として、イスラム教徒に限らず、世界中のどこででも用いられるようになっている。

 あー、そうなの? 

a place that many people want to visit for a particular reason

mecca | meaning of mecca in Longman Dictionary of Contemporary English | LDOCE

 簡単な英英辞典でも出てるわな。あー、しかし、英語みたいに小文字のmeccaで、ってわけにもいかないし、さーどうしたもんだろう。あと、どんぐらいメッカの俗語使用が非難されているか、というあたりについてもわからん。今の俺には、わからん。

すべからくin『涼宮ハルヒの憂鬱

 こないだ生まれて初めて読んだラノベ、『涼宮ハルヒの憂鬱』。感想に書いた通り、スイスイ読めてすげーって思ったんだけれども、三つか四つか誤用の「すべからく」出てきたんだよ(そういや、こないだアニメに「メッカ」も出てきてたな)。で、これも、「正しい日本語を使うべきだ!」とか言う気はさらさらないんだけれども、なんつーの、気になる。これはもう、たぶん、親父のすすめで呉智英の本を読んだ小学校高学年か中学に入ったあたりからはじまった病なんだけれども……。なんつーの、この場合、「あ、間違ってる」→「ああ、それを気にする俺、小っちゃいな」のコンボで決まって、俺が俺に非常にうざいんだよ。それでさらに、「でも、これ、キョンの回想記のような形で書かれているわけだから、高校生(?)のキョンが『すべからく』を誤用していてもおかしくはないよな」みたいなボーナスまでついてきて、嫌になるよね。
 でも、だからってさ、俺が「すべからく」がなんなのか、あるていど正しい、というか、伝統に則した意味を知っていること、それを否定することかというと、そうでもねえような気もして。やはりその、あるていど正しい、というか、伝統に則した意味を、まあ、語彙があることによって、『ハルヒ』にしろ、なんにせよ、本を、文字を、ブログを読むことができるあたりもあって、でも、それゆえに、なんか小さいことを気にしちまう、そのあたりが歯がゆいというかなんというか、あと、そんなに気にしてんのに、てめえがブログに垂れ流す文章にもうちょっと気をつかえとか、いや、使う気はさらさらないんだけれどもとか、もう、そういうことになって、頭の中がたいへんなことになってます。
 
 ……あー、そういうわけで、なんかその、うーん、もうちょっと、おおらかな心で、テキトーに生きていきたいと思ったのでした。でも、脳のデチューンの仕方とかよくわかんねーし、いや、なに思い上がってるんだ、俺、そもそもチューンが足りない可能性の方が高いだろ、たぶん。まあ、しかし、いずれ、どうにかなるだろうと思いました。おしまい。