エンドレスヘイト〜『朝日平吾の鬱屈』を読む

早稲田大学中退、朝日平吾
「ただの人間には興味がありません。この中に真の義人、真正の日本人、大正維新を実行すべき天命を有する青年志士がいたら、あたしのところに来なさい。以上」

 上記は引用者の捏造(引用とは言わない)。

朝日平吾の鬱屈 (双書Zero)

朝日平吾の鬱屈 (双書Zero)

 というわけで、中島岳志の『朝日平吾の鬱屈』を読んだ。ラノベのようだがラノベでない。安田財閥の祖である安田善次郎を単独テロルで粛清した男の伝記である。著者の中島が見沢知廉の映画に出ていて、一冊読んでみようと借りて読んだ。
 その著者曰く、自らロスジェネ世代にあたり、同世代にあたる赤木智弘の「丸山真男をひっぱたきたい―三十一歳、フリーター。希望は、戦争」を読み、直感的に「朝日平吾の鬱屈と似ている」と思ったそうである。そういった赤木のような言説の中に見られる危険性についてなにか感じるところがあったようである。
 で、鬱屈といえばおれもそうとうに鬱屈した人間である。幾度も述べてきたことだが、生まれてこの方ほとんど自己肯定感というものをもったこともなく、家も中流の上と思っていたら全部なくなっていつのまにかワーキングプアレベル。日本の景気そのままに落ちてきたという気もする。というか、おれから鬱屈を取ったらなにが残るというのか。せいぜいいくつかの抗うつ剤向精神薬の成分くらいのものだろう。

 さて、そんなおれは赤木の「丸山真男を」やそのまわりの話をどう読んだのか。……と、2007年の話だというから検索してみてもひっかからない。「赤木智弘」で日記を全文検索してもひっかからない。なにせおれは、最近まで丸山真男がだれだか知らなかったくらいだし、当然とはいえ当然か。
 とはいえ、そのあたりの話を読んだ覚えはある。あくまでそのあたりの話をインターネット上で流し読みした、ていどだ。そして、そのとき思ったことは覚えている。
 「希望は戦争、だなんてのは、なんか左翼内かなんかの仲間内のじゃれあい、不良娘が父親に『アタシってばこんなに傷ついてるの!』とかいってタバコ吸ってみせたりするていどじゃねえの」と。

 なにせクソみたいなところに落ち込んだ俺にとって、本当に心にしみこむことを言ったやつは宅間守だった。宅間守とは世代もなにもかも違うが、なにせあれはやってしまったのだから本物なのだ。宅間にはまったく偉いところも褒めるべきところもないが、おれの心の中には「やったやつは本物、言葉だけのやつは本物じゃない」という思いが妙に根強く、思想傾向だの善悪だのなんだの飛び越えて、妙な判断基準になってしまっている。
 ……などと言っている俺も、『アタシってばこんなに傷ついてるの!』って言ってる偽物にすぎないわけだ。ただ、偽物なりに、偽物の腹を切って、偽物の内臓をベシャベシャ投げつけているわけだ。そうしたいからやってるだけだ。ひどく醜いし、愚かだ。
 しかし、。朝日にしろおれにしろ、なんというか病んでいる。病という意味で病んでいる。今風にいえばパーソナリティー・ディスオーダーとか呼ばれるところだろう。朝日の場合は自己愛性パーソナリティ障害か? 宅間など反社会性パーソナリティ障害とかをはやらせたんじゃなかったっけ(とかいうことを通院先の医者が言ってたような気がする)? まあ、おれは医者でもないのに見たこともない人間のなんかを断ずることなんてできねえけどさ。なにかしら時代の不穏な空気みたいなガスに、まっさきに反応するカナリアみたいなやつ、いや、いきなり着火させちゃうやつ、テロリストにはそんなガスと火みたいなところがあるだろう。
 おれの場合は回避性のパーソナリティが異様に強いからよかった。抑うつ傾向が強すぎるからよかった。そういう面はあるに違いない。満洲に渡って馬賊になろうとか、日蓮宗系の寺に入ろうとか、そういう行動力のいっさいに欠けている。せいぜ子犬のようにキャンキャン吠えるだけだ。それもネットの中でだけだ。それがよかった。なににとってよかった? おれに? おまえに? 大五郎に? 誰だ大五郎。
 まあ、政治犯的な鬱憤、テロは権力のさらなる肥大化を招く、そういうスパイラルに陥るからいかんと、著者はおっしゃる。そのとおりだろう。でも、おれ、やっぱりどっかで、究極のところでやっちまうべきなにかが人間にはあって、そのなにかが悪や誤りであろうと、この欠陥品たる人類にはそういうのも織り込み済みだし、それすらすくいとるところに弥陀(でもなんでもいいが)の本願があるのではないかと。いいことやろうとして盛大に大失敗して、救いのないようなひどいことになって、そこのところに所詮は人間の限界があって哀しいし、哀しいから人間なんだろうと。
 いずれ人間社会は無謬に設計しうるかというかというところで、おれが国家社会主義的もしくは共産主義的なのか、それとも保守なのかといえば、いずれとも答え難いところがある。社会制度も、身体も脳も(朝日や宅間やおれがもう生まれないように、治されますように)科学の叡智によって改良されていくと信じる。一方で、その到着点に自由、そうだ、おれが請い願うのはただひたすらの自由、自由が生ずるかというと、それはなんか違う。違うんだ。もっと、盤珪禅師が「そのままでええわいの」って言ったら、みんながみんな自由に踊り出して、大杉栄が言ってたみたいに「僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけがいやなのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものがいやなんだ。そして、一切そんなものはなしに、みんなが勝手に躍って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ」ってのが夢なんだ。
 まあ、ほとんど人類の革新とか、人類補完計画とか、なんでもいいが、いっさい現実の社会や政治に影響しなさそうな話だ。56億年くらい先のことだ。まだ人類にには、社会には、身体には制約が多すぎる。足りないものも多すぎるし、無駄なものも多すぎる。
 いや、そんな大きなもの見てなんになる。なによりおれなんぞはおれの食い扶持をまず心配せねばならないし、脳内伝達物質をうまいぐあいに調整しなくてはならない(……未来から見ればおそらくひどく野蛮で乱暴な方法だろう。ロボトミーや原始的な電気ショック療法のように)。
 とにもかくにも、偽物は偽物らしく、ひっそりと息づくことから始めよう。……って、この時代、この国で、そのハードルが妙な高さにあって、それができるのか? そう、誕生月の今月には、政府がねんきん特別便とかいうのを送ってきて、「おまえに将来なんてないし、はやく死ね」って通告してくるわけだ。
 まったく、どうしたものだろうか。まだ動く手、立つ足、考える頭があるうちに、やっておくことがあるんじゃないのか。そう、たとえば折込チラシに入ってる通信講座でなにか勉強するとか。ペン習字講座で達筆になってさ、立派な斬奸状書いたりすんのはどうだろうか。おしまい。

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 ところで俺、けっこう熱心に『ハルヒ』観てたな。
 あれ、でも、映画『涼宮ハルヒの消失』の感想がないぞ。……って、ちょうど日記おやすみしてた時期だったか。いや、最後あの歌流れてきたときは泣いたね、たぶん、たしか、きっと。

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