感傷と追憶の腰越・津・西鎌倉紀行〜その2〜

はじめに


 ここに記される記録は2009年7月26日、私が私の育った界隈を、ただ追憶の赴くままに徘徊した記録である。モノレール紀行失われた実家から江ノ島へ祖母との会話と合わせて、これがこの日の記録の最後となる。
 話は、諏訪ヶ谷から始まる。小さかった私の小さな世界にとって、この交差点は一つの境界だった。今以て、ここがどこかしら、自分のトポフィリアの根っこであるように思えた。

西鎌倉のメーンストリート


 諏訪ヶ谷の交差点である。やや変則的な十字路だ。ここをまっすぐ進めば、奥深く広がる住宅街、左に曲がれば西鎌倉、右に曲がれば片瀬山。
 私にとっては、この方向からの諏訪ヶ谷の印象が強い。そう、まだ文字を覚える前の記憶がある。正面に吊された「高さ4.5m」という注意板、これである。車でどこかに出かけたとき、このあたりにさしかかると、母は「スワガヤよ」という。字の読めなかった私は、正面に吊されたあれに、「スワガヤ」と書かれているのではないかと思った。しかし、どうも後ろの方はべつのものではないか、数字か、外国語ではないのか。自分は、あれを「スワガヤ」と読めるようになるのか。あるいはなにか、大人には不思議なルールがあるのか……。私は、家が近いという安心とともに、文字の不安、未知への恐怖を覚えた。
 これは、区切られた、ある点の記憶ではない。線の記憶だ。その後にずっとつながっている。これは私の中の原初の、そして確実にあった記憶と断言できる。なぜならば、この看板を見るたび、その漠然とした不安はつねに湧き上がったからだ。自分が文字を読み書きできるようになっても、30歳になってここに立ち帰ってみても、だ。


 ここはコンビニである。店内も新しい。だが、建物は変わっていない。私は知っている。ここは「ハイマート」だった。コンビニ未満、スーパー未満、しかし八百屋以上の何か。小規模な、そのような店だった。入ると、コンビニとは違った、フルーツの匂いがしたように思う。
 ところで、この自販機の前にある階段だ。一見、トマソンのようでもある。わざわざ自販機のために作ったものにも見えない。私は、この階段の理由も知っている。昔、そう、それもハイマートのころだ。この正面には対面式のタバコ販売窓口があったのだ。おばあさんが居たと思う。やがて、ハイマートの時代にそれはなくなった。私もまだ小さかったころだ。
 もうひとつ、ハイマートには思い出がある。そこにハイマートの主人の子がいたのかどうだったのか、ハイマートの二階で、子供会の催しが開かれた。クリスマス会だったかどうか。ともかく、私は、普段店としか認識していない建物の二階、そこは店主一家の住居、その一室にすぎないが、物珍しさでいっぱいだったと思う。
 パーティは……そうだ、たとえばさくらももこが描きそうな場面を思い浮かべてもらえばいい(さくらももこが世に出るのは、しばらく先の話だが)。なにか、微妙なずれや温度差があった。子供会といっても、学年が違えばよく知らない間柄でもあるし、ましてやその父母との微妙な距離感というものがある。
 だが、私にとって忘れられないのは、そのような空気の機微ではない(いや、空気の機微も覚えているんだけれども)。ビンゴかクジ引きかハンカチ落としか、ともかく何かのゲームが行われ、私が一等賞を獲得したのである。いったい何だろうと包みを開けると、ボールが出てきた。野球のボール、ゴムボールや軟球ではない、硬い球だ。そして、そこにはオレンジ色の時で「YOMIURI GIANTS」と印刷され、黒い字でもしゃもしゃと何か書かれている。サインボールである。そう、それは、槇原寛己のサインボールだった。
 私は喜んだ……ふりをした。私は、私が物心ついたときからの広島ファンであり、それと同時にアンチ巨人になった人間である。私が読売に感じていたものというのは、ほとんど蛇蝎の如く忌み嫌うという感情であり、巨人のサインボールは穢れに近かった。罪そのものという感じがした。
 しかし、私は子供である。「ジャイアンツの選手のサインボールをもらえば、子供は喜ぶ」という、ハイマートのおやじの純朴さを裏切るわけにはいかないのだ。いきなりサインボールを窓の外に投げ捨て、「バックスクリーンに三連発くらうような、パンダみてーななさけねー顔をした投手のサインボールなんていらんわ! 最高の右投手は北別府じゃ!」などと言うわけにはいかないのだ。そうだ、私は子供だった。子供会の行事に参加し、みんなが応援する、みんなが大好きな巨人の選手のサインボールをもらって喜ぶ子供でなくてはならないのだ。「わー、やったー! 僕は江川より槇原が好きだよ、おじさん!」
 私には全てが敵だと思えた。善良そうなハイマートのおっさんも、周りのガキどもも、みな巨人ファンなのだ。多数派なのだ。私は、一人広島ファンだった。私はマイノリティとして、周りに悟られぬよう、少なくとも巨人を憎んでいることを隠して生きていかなければいけない。ああ、このハイマートの商品も、みなけがれてしまったような気がしてくる!
 ……ここまで広島に入れ込み、巨人を憎んだのは、父と、祖母の影響が大きい。いや、小さな子供に対して振るわれたそれは、ある種の抑圧なのかもしれない。まだプロ野球が十二球団によって構成されていることを知ったばかりの子供に、「巨人というのは、江川もそうだけれども、本当にずるいチームなの。あの長島茂雄だって、ほとんど南海に決まりかけていたのに、直前にお金で引き抜いたんですもの」などというのは、フェアなことでしょうか、おばあちゃま。ああ、しかし、そのときの長島を引っ張ろうとしたのは、南海のドン、鶴岡一人だったのだな。だから、祖母は巨人が嫌いになったのだろうか。
 まあ、それはともかく、今となって私は実に関東の広島ファンらしい人間として生きているし、そこに後悔や迷いはいっさいない。私は広島ファンになるべく生まれてきたのだ。いくら私が今シーズンのカープの話題を追っていないからといって、私は私がカープファンであると思う。ひょっとすると、私の中で民族主義的な面、差別主義的な面があるとすれば、ここかもしれないと思う、それくらいである。
 ……その後、そのサインボールがどこに行ったかは忘れた。飾ったりはしない。そのころ、ゴムボールの野球がはやっていて、自分も毎日、日が暮れるまで壁に向かってボールを投げていたものだが、硬球というのは跳ねなくてつまらない、という記憶はある。


 太太である。このあたりでラーメン屋といえば、みのり亭か太太かといったところだった。先にあったのはみのり亭で、あちらの方がメニューも充実していたし、私は好きだった。
 が、みのり亭になく、太太にだけある思い出がある。出前である。ごく、まれに、なぜか出前を取るとなると、圧倒的に近いこの太太ということになる。なにか、あの妙にわくわくする出前を待つ感覚。チェーン宅配寿司やピザ屋とはどこか違う。そして、届いたラーメン、ラップ、水滴、輪ゴム、そのようなものを見なくなって、久しい。

 ここは……クリーニング屋? たしかここに、ガチャガチャとゲームの筐体がったんじゃなかったろうか。そして、右側の、なにか植木鉢の見えるなにか。このなにかは、二十年前からこのようであったと、私は証言しよう。なんなのかは、わからない。

 床屋である。私が生涯で一番多く通った床屋かもしれない。小さなころは、非常にくすぐったがり(今もだけれど)で、首筋をせめられるとうひゃうひゃ笑い出して大変だった。いや、大変だったのはこちらの主人だろう。
 そうだ、はじめは夫婦でやっていた。やがて、若い二代目が加わり、さらに二代目の奥さんも加わった。床屋一家なのだな、と思った。
 ちなみに、私はいまだ、美容院とか美容室とかいうところで髪を切ったことがない。また、この店において私が発したのは「ふつうに」の四文字がほとんどであったと申し添えておく。

 みうら寿司、である。山家と同じく、縁がなかった。しかし、未だ健在、だ。

 西鎌倉のメーンストリート。マロニエ通りだかなんだかいう名前がついていたと思う。でも、実際に植わっている街路樹がマロニエではない、というような話があったようにも思うが、ここだったかどうだか。しかし、広くていい道だ。いつもそう思う。

幼稚園に向かって


 私は、私の卒園した幼稚園を訪れることにした。Googleのストリートビューが出たとき、電子的な意味で訪れた場所である。私がこのあたりを通るというのは、本当にもう、二十年以上ぶりといっていい。そのせいで、土地鑑も狂って、すこし困惑した。


 ようやく見えてきた、ミラー。目隠しの木。変なレリーフ。この日は日曜日。誰もいない。もちろん、門は閉ざされている。


 と、目に入ったのは、左の方、公園?


 ……、……公園が、あった。そうだ、幼稚園の上に、公園があったんだ。なにか行事のとき、ここで幼稚園のおまつり? バザー? 「エプロンおばさん」というのがあって、体の大きな先生が、ポケットのたくさんついたエプロンを来て、みんなで群がって、その中に入っているあめ玉? 小さなおもちゃ? そんなものを……。音楽、砂煙。


 これのことを、「ギッタンバッコン」と呼んでいた。これのこと、なんというのだっけ? それにしても、木、鉄、おまえら、昔のままじゃないのか。


 おい、君、ひさしぶりだな。待っていたのか。


 そうだ、この階段、白い、軽石のような階段、この門が開け放たれると、放牧の羊かなにかのように。そうだ、この階段あがって、それはずいぶんな距離に思えた。だから、幼稚園の上に、と思ったのだ。この門だ。この階段、白い、軽石のように見えた。


 この花には見覚えがある。


 この水飲みには見覚えがある。左側の、一段。あの段を使わずに、水を飲めるようになったら、ちょっと大きくなった証だったんだ。小さな自分には、すごい高さの違いだった。それは、もう。


 でも、登れる木もあったのかな。登れる木と、登れない木があって、登れる木は、すごく仲のいいやつって気がしていたんだ。ひさしぶり。


 昔は、この正面に園舎があったんだ。


 変なレリーフ。僕はあかるくたくましい子だったろうか? 僕はよく考え工夫する子だったろうか? ぼくは思いやりのある人間になれたのだろうか?

西鎌倉


 また、メーンストリートに戻る。郵便局。私の中で郵便局といえば、これなのだ。


 これは、私のよく知らない店である。だが、誰がはじめたのかは知っている。さきほどの床屋の、最初の主人が、息子に向こうの店をゆずり、なぜか一山越えたこちら側に、なにやらオシャレな店を開いたのだ。私にはよくわからない話だったし、いまだによくわからない。どちらも健在なのはよろこばしい。

 入船、健在。これもまた、古い古い原初の感覚を呼び起こされる言葉。「酒屋さん」などという分類、言の葉を知る前に、「イリフネ」という響きだけがあった。子供の飲んではいけないお酒を売っている、でも、レストランでお食事をした帰りに、アイスクリームを買ってくれる……。そうだ、私はまだ小さかったから、アイスクリームケースの中を覗くことができず、後ろから抱きかかえて、クレーンゲーム(そのころクレーンゲームなんてなかったが)のクレーンよろしく、好みのアイスを拾い上げたのだった。


 ずっと下ってきて、左手にコンビニ。駐車場が、どこかの田舎くらい大きい。いや、鎌倉も田舎かもしれないが、ともかく、こんなに大きな駐車場を持つコンビニは、このあたりでほかに思いつかない。それはなぜか。それはここがかつて、スーパーマーケットだったからだ。言うまでもない、西友があったのだ。そして、その対面の一段とたかくにそびえるのが、西鎌小。


 西鎌倉小学校。私が出た幼稚園は、西鎌倉幼稚園。西鎌倉幼稚園を出た子のほとんどは、この小学校に入ることになる。私は、違った。私とともに、腰小へ行ったのは、私を含めてわずかに三人だった。もともと人見知りで臆病な私は、ひょっとすると最初の最初から、あの小学校を好いていなかった、こころよく思っていなかったのかもしれない。
 そうだ、なんといっても西鎌倉幼稚園は、とびきりモダンで、おしゃれだった。これも確実な記憶として残っているが、幼稚園に入る前、「好きなところを選べ」と言われて、車で何カ所か回った。迷うまでもなく、いちばんかっこよかったのが西鎌倉だった。ただ、その選択が、どこかで歯車を狂わせたのかもしれない。ボタンの、掛け違い。


 歩道橋も、古さをかくせない。


 西鎌倉小学校の正門は、どこにあるのだろう?


 右手を進んでみたら、トンネルがあった。向こう側は、ちょうど井汲さんの家があると思しき方向だ。


 やはり西鎌は私を拒むのか?


 しかたない、私は手広の方に進む。


 おまえには見覚えがある。


 ここには、お好み焼き屋があった。広島風お好み焼き。「てるちゃん」といったか。広島出身の父に連れられ、飲み屋の雰囲気であるこの店には何度も行った。父は、「本当の広島風はこんなんじゃないんだが」と、なにやら不満そうであった。そのわりに、この店の影響でオタフクソースにはまり、わが家からはしばらくの間、ブルドックソースが姿を消した。数年後、ふと母が買い、コロッケにそれをかけたときの新鮮さときたらなかった。そんな話だ。


 ここには、たぶん、トップボーイがあったんじゃないだろうか。少し、あやふやだ。ただ、あったとしたら、それはそれほど遠い昔の話ではないような気がする。原付で、来たようにも思う。


 右手、階段の上に西鎌小。やはり私にはこの階段を上れない。私は自分の学校が嫌いで、ほんらい私はこちらに通うべきじゃないかと思い続けていた。こちらは校舍が四階建てで、プールもあるという。社会見学かなにかで、ディズニーランドに行ったこともあるという。ただ、私は泳ぎが大の苦手だし、ディズニーは小さいころから嫌いなのだ。

手広へ


 西鎌倉の方を見上げる。ここも、私にとっては一つの、ホームへの入口、そんなふうに感じさせる風景だ。この、左手の、延々とつづく崖。


 そして、このトンネル。このトンネルの不思議さというのものは、小さなころから私をひきつけてやまなかった。トンネルというのは、ふつう、道があって、みんなが通るためにあるものだ。しかし、このトンネルは、そういう道ではない。私有地、立ち入り禁止。その向こうには、何があるのか……アパートがあるのだ。しかし、いったい、何がどのようになっているの? どうして、アパートのために、山がくり抜かれているの? 立派な、車も通れる大きなトンネル。私は、小さなころから、このトンネルを見ては、さまざまな妄想を頭の中で練っては壊し、そうし続けた。


 トンネルの向こうには、ネコがいた。

鎖大師、旅の終わり


 ロヂャース、ダイヤなどに買い物に行く、その帰りによく寄ったのが鎖大師だ。これもまた「クサリダイシ」として、音が先に入った言葉だった。そして、その言葉から真っ先に連想されるのは鎖でも御大師さまでもなく、池と鯉だった。

 お堂より、鐘より、なにより池と鯉なのだ。少し濁った水の中を泳ぐ鯉、そんなものは、家でも幼稚園でも学校でも見られない。水槽の中の金魚とも違う。私は、この箱庭の中の鯉が好きでならなかった。自然なのか半自然なのか、やはり人工なのか。なんだかわからないが、好きだった。だから、鎖大師ときくと、水のイメージが湧く。ちなみに、お寺としての正式名は「青蓮寺」だ。


 どうも、お邪魔します。


 こんなに、凝った風景だったかな。


 はじめまして、という気がするのだけれど。


 この色ではないのです。私はサングラスをしていて、もっと夕暮れの世界だった。ツクツクホーシがたくさん鳴いていて、人は誰もいなくて。


 しかし君は、どうも俗世の顔をしている。


 そして旅は終わる。


おわりに

 ベンチに腰掛けてポケット地図を出す。手広をまっすぐに進み、大船に出よう。大船から横浜に登っていくのだ。そうだ、手広の交差点も、また私にとっては一つの境界だた。左に出れば藤沢、これはわが家から車で藤沢に行くときの道だ。一番最初に知った。次に知ったのは、右に向かって深沢の方へ行く道。これは、私が原付に乗り始めてから知るようになった道だった。そうだ、このあたりの路地の自販機に、私が愛してやまなかったタバコ、ジョーカーが売られていたのだ。ジョーカー、すみや、原付、ロヂャースで買ったエロビデオ。
 ただ、今日はもう、まっすぐ帰ろう。よく知らない道を通って、よく知らない街に帰ろう。この街に帰ろう。
 でも、この知らない街も、いつかよく知る街になるだろう。とんでもなく細かな思い出を語るようになるだろう。
 だが、そのとき、たぶん私はもう、この街の住人ではないのだ。すべては追憶と感傷の中にある。今、このときは追憶と感傷ではない。私は、思い出以外の言葉をうまく語れない。

 けれども、ひょっとすると、私にとって、腰越、津、西鎌倉のように語れる土地は、新たに増えたりはしないのかもしれない。言葉以前からの場所は、ほかにないからだ。言葉以前に獲得した地。私のトポフィリア。源、原初、風景、匂い。言葉によって、ズタズタに細分化され、我と彼、主と客、あれとこれに別たれてしまう前の、そんな世界。

 言葉なんて覚えるんじゃなかった、と、どこかの詩人が言っていたっけ。

 ……でも、それでもさ、俺はそんなに言葉が嫌いじゃないんだ。むしろ、好きなくらいだ。こう、自分が感じたもやもやしたものを、記憶を、疑問を、形にしてくれて、こうやってまた見返すことができて。その、動きが、好きなんだ。それで、形にされた言葉は、とてもあてにならなくて、インチキだってことは、その言葉を使った、その瞬間にわかることで、本来言い尽くせないものなのに、なにか適当な代理品をかぶせて……それでも、やっぱり、もやもやのままでは、誰にも伝わらないから面白くないんだ。たぶん、そういうことだから、仕方なく、こう、人間はこうやって、それはたぶん、言葉、言語に限った話じゃなくて、表情でも、身振り手振りでも、なんでもいいんだけれども、伝えきれないところがあっても、伝えようとして、それはもう、瞬きひとつ、心臓の鼓動一回、そんなものも、全部なんらかのコミュニケーションで、でも、全部嘘なんだけれども、それでも、なにか伝わるかもしれない、そうであってほしいって願うところが、悲しくて、おかしくて、おもしろいんだ。俺は、そう思うのだ。

<おしまい>

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