山登り帰りの老人に電車の席を譲るべきか問題

 もう全く譲りたくない。現実にその時その状況が現れた時どうするかはわからん。しかし、机上で考えるとそうなる。お前らはそれなりの経済成長、生活の成長、満たされた部分あって、今その登山靴とバッグ、帽子の有様。この娑婆とは後十年か二十年か。一方で俺は後三十年、四十年、長い地獄。何ならいっそ、席を譲って貰いたければ金を出せ。若い奴に千円札出して、その席を譲ってくれと言え。富の移譲、異常の想念。
 誰かと分かち合えない最後の壁、否、最初の壁が金だ。富だ。かつては違ったかもしれないが、今はそれだ。それのみかもしらん。どろどろと渦巻いてなどおらん、煮えたぎるマグマではない。もう、冷えて固まった壁だ。ガラスだ。一見誰それと分かる部分があるように思えても、最初の一線、最後の一歩で、「どうせ金持ちの戯れ言」というところがある。同時に己がまた更に貧しい誰かからそう思われている事は全く関係ない。俯瞰的に見ればグラデーション。指標、参考のラインはあっても、目に見える壁は存在しない。しかし、グラデーションの初めは黒で終わりは白であって、灰色の濃さもそれぞれに違う。
 こと俺については金。俺の世界では人々を分かつのは金。俺の世界は単純で貧しい。俺の考えること、見ること、聞くこと、そこに帰するのは我ながら空しいところがある。しかし、知らぬ間に成形されていた。
 また、人によって色々の尺度があって、壁やガラスがあって、この世界はズタズタに分断されている。四方八方から色々の羨望や見下しの矢が飛んでいて、矢が区切りを作り、俺は誰にどんな顔をして話せばいいかわからなくなっている。