「あとがき」から。偶然だけれども、庄野潤三の訃報を知ったばかりだった。
創樹社を創設した竹内達さんと玉井五一さんのところから書物を出してもらうことになって、林檎箱の中をさがしたら、ごく短い小説十二篇があらたに出てきた。それは昭和二十七年から二十九年にかけた約三年のあいだに大阪のABC放送から放送してもらった台本の大部分だった。当時友人の庄野潤三がその放送局のプロデューサーをしていて、彼の企画で引受けたいくつかの仕事の中のそれは「掌小説」として書いたものであった。それらの日々、私は父のもとをはなれ東京に出て、妻と子供二人の、四人水入らずの生活を送っていたが、ABCでの折々の仕事が生活の支えに役立った。
埴谷雄高の跋文から。
ここには家庭内における家族のそれぞれの気持の陰翳がこまかな襞にわたって写されており、鶏や猫にまつわる小さな出来事によってもたらされるひとびとの心の動きが深く彫りこまれている。作者はこれらの作品を「葉篇小説」と呼んでいるけれども、これらは夕暮の薄闇のなかにおかれた小さな宝玉のような内部の明りをたもって、日常のなかに生きているひとびとの動きの交差する空間を大きく照らしているのである。
読書の秋、ということなのかどうか、また本を読んだ。俺とて自転車に乗るか、ラブプラスするかという二択の人生を歩んでいるわけではない。もっとも、せいぜい五択といったところで、その中に仕事とか仕事力を高めようというなにかはいっさい入っていない。
上のあとがきにあるように、これは短編集だ。サドンフィクション(asin:4167254026)というほどではない。川端康成の『掌の小説』くらい。
ラジオドラマの台本やエッセイが混じっているため、文体も人称もさまざま。だが、それがかえっていい。猫や鶏のエピソードにしても、同じような内容でありながらも微妙に視点が違い、マシンガン撮影のような、奇妙に立体的な映像が浮かんでくるようだ。
と、これは実生活を中心としたIIIの話。夢や幻想に支配されたIのパート、過去の記憶をたぐり寄せるようなIIのパートと繋がって、最後にここに到達する流れ、これがなんともいえずいい。日常パートの言い得ぬ不安感に向けてぼんやりと加速してきたような気になる。
さて、これら葉篇のなかで、好きなものを挙げるとどれだろうか。IIに収録されている、ある学芸会のようすを描いた「松田君の場合」。これは好きだ。
学芸会が近づいて来て級長の松田君は気持が落ち着かなくなりました。
音楽の佐々木先生は劇の「花咲爺」には誰と誰を出すだろうか。独唱には誰がえらばれるだろうか。各学年の男生徒から一人、女生徒から一人、そしてそれは毎年父兄の注目のまとになるはなやかな役どころだったので、それにえらばれることは、生徒としては大へん光栄だったのです。
からはじまる一篇。これはこのまま小学校の国語の教科書に載っていそうな話だけれども、読後感のさわやかさといったらないのだし、うっとりさせるようなものなのでした。
ほかには、ひらがなの比率高めで悪夢のような言葉の連打、「体験」か。
べつにだれかにとがめられたのではないが、きゅうに稀薄になり、ついもちこたえられず、あらわになったおもった。みんな浮遊していて、ぼくだけではないとおもうが、みやぶられるのはじぶんだけだ。不安がもやのようにわき、いつまでたってもとれることはないと観念するとまず絶望してしまうのだ。
「妻の職業」などもおもしろい。なんとなくつげ義春や桜玉吉の絵が思い浮かんでしまう。この冒頭から、理屈を重ねていって結論を出すまでの細かさなど、にやりとしてしまうところがある。
家内がつとめに出たいと言い出しました。それも、かたぎのつとめではなく、バーの女給勤めにです。
私は考えざるを得ません。第一私の家内にバー勤めというものがどんなものであるか全然分かってはいないのです。バーに出て一寸眼をつぶってサービスをすれば、月に三万や四万の金は立ちどころに手にはいるなどと思っているのですから。
また、「きみよちゃんの事」は、ロリータ小説というと言いすぎかもしれないが、なにかそのようなざわめきを感じずにはおられない。妙に印象にのこる。いっぽうで「おちび」は中年にさしかかる女性を描き、これもなんともいえない。俺は年上の女性とつきあっていて、いろいろと思うところはある。
不思議なことに、ひさびさに本を読めるようになっている。あらたに買わなくとも、未読の本で部屋はいっぱいだ。なぜ、本を読む気がないときも、本を買うことをやめられないのだろう。冬眠かなにかのために食糧をかきあつめる小動物のようだと思う。
俺が持ってるのはハードカバー第四刷。
- 掌の小説 (新潮文庫)……ただ一編だけものすごく強烈に、頭をぶっ叩かれたように印象に残ってるのがあって、タイトルも思い出せないが、姉が妹をいじめるようなやつで、ほら、足をあたためさせるときの、あのゾクゾク。この変態! 変態! 変態! って、今思えば、あれが百合との遭遇?