九龍城のヤングチャイニーズ

1


 俺はこないだどこかで、今住んでいるワンルームアパートを終の棲家にしたいと書いた。これはおおよそまったく本心に近い。俺のアパートはまったくすばらしい。数えるほどの人間しか来たことはないが、きまって「なんていったっけ、あれ、中国の九龍城みたい」などという。
 環境が、治安が悪いのか? 否、だ。ここには俺のように大人しい人間しか住みたがらない。大人しい? いや、社交性がないとか、人間が嫌いだとか、そういった類の人間だ。もちろん、俺は人間嫌いなので、両隣の人間と話したこともない。俺の想像だ。
 けれども、それほど荒唐無稽な思い込みとも思わない。だいたい、ともかく車が入れない細い細い路地の先にあって、斜面に増築を繰り返したアパート群がへばりついているこの住居、人が訪ねてくるようなところではない。駅からもバス停からも歩かねばならないし、面倒だ。
 だから、おおむねここの住民のもとを訪ねる人はおらず、いつもひっそり死んだような雰囲気をしている。生活時間もバラバラなのか、たくさんの部屋数がありながらも、住民同士ですれ違うことも稀だ。休日にうなりを上げるそれぞれの外置き洗濯機が生存の証だ。
 ただ、こんなところに住むやつは、変わってるやつである可能性が高い。俺を一時期騒音で悩ませた古参住人はオカマのおっさんで、金髪、ボディコン、網タイツ、ハイヒールのフル装備を深夜の月明かりのもとで見たときは、かなりの存在感だったな。一言も口を利いたことはない。
 もっと変わってるやつといえば、逆隣に一時期住んでいた男だ。完全に精神を病んでいて、創価学会北朝鮮相手に脳内大戦を繰り返したあげく、最後には訪れた彼の父親に対して発狂し、警察沙汰になって消えてしまった。言うまでもないが、俺も彼らの仲間だ。

2

 そんなこのアパートに、最近変化が起こり始めた。中国人が、中国人たちが住み始めたのだ。はじめは大きな話し声で気づいた。まあ、俺は中国語を解さないので、「たぶん」つきだけれども。ワンルーム独り暮らし専用住居、はじめは同郷人が訪れているのかと思って、あまり気にしなかった。
 が、そんな会話がやけに毎夜続く。まさか、複数人で住んでいるのか? とも思う。が、それも違うようだ。朝、数人の若い彼らが、ある部屋の前に立って立ち話をし、その部屋の住人が出てくるのを待っているところに、何度か出くわした。場所はその都度違う。何人か、それぞれ部屋を借りているのだ。
 だからなんだといえば、べつにどうということもない。俺の睡眠時間を害さなければ少々会話の声が大きくてもいいし、多少ドアの開け閉めの音がでかいのも耳をふさごう。朝晩、ドアを開けっ放しにしているのも、べつに好きにすればいい。俺の部屋が開け放たれているわけじゃないのだ。
 

3

 そんな彼らと急接近した。洗濯機から洗濯物をとりこんでいるとき、うっかり洗濯ボールを外階段から下に落としたのだ。下に彼らがいたのは気づいていた。数人で誰かの部屋の前、わいわいやっていた。ここに住んでいないやつも来ていたのかもしれない。
 酒に酔っていた俺、紫色の無地Tシャツに、だらだらのジャージという姿で、ポケットに手を突っ込んでカッコンカッコンと鉄の階段を降りた。そのとき、連中のうちの一人と目があったのだ。ふつうは、あまり人の顔など見ないようにしている。ただ、偶然だ、目があった。
 そいつはどんな顔をしていたのか。なんとも無垢な感じだった。降りてくる俺を見て、「この人もぼくらの友だちの一人かな?」とでもいうような、なにか子犬を思わせるような表情を浮かべた。まだ若いのだ、子供なのだ。たぶん、留学生なんだろう。育ちのいい、留学生。
 もちろん、そんなのは酔った俺の勘ぐりにすぎない。ひょっとしたら、チャイニーズ・マフィアの凄腕かもしれない。だが、俺の目には、そう映ったのだ。そう映って、なんともいえぬ気持ちになったのだ。的確な言葉が思い浮かばないが、しいて挙げれば、嫉妬?
 若さ、異国の地での生活、仲間たち。こいつの前途には何が開けているのだろう。俺はこのワンルームアパートの奥の奥の部屋で、一人とじこもって何をしているのだろう。俺はなにかもう、明るいものを見て、目を逸らしたくなってしまった。
 俺はできるだけ悠然と、彼らを気にしないふりをして、百円ショップで買った洗濯ボールを拾って部屋に戻った。洗濯物を干しながら、思った。彼らはここなど終の棲家などと思うまい。俺やオカマのおっさんとは違う世界に飛び立つのだろう。そして、俺を取り巻くものが、変わってしまったように思えたのだ。

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