我、内科医院ニテ奮闘ス

土曜の朝、医者に行く

 いよいよ俺は俺の睡眠に関して医者に行くことにしたので、とりあえず行ってきたので、帰ってきたので。
 とりあえず、近くの内科医だ。俺はついに決心した。そうだ、近所の医者だ。行くしかないんだ。そうだ、そこはまだ去年かそこらにできたばかりで新しい。土曜日なので混んでいるかと思ったが、かなり早く行ったせいか、まだ大丈夫。受付の男性に声をかける。
 「おはようございます、あの、初診なんですが」
 「はい、健康保険証はお持ちですか? また、今日はどのような……」
 「……あう、あのー、……」
 そうだ、そりゃ聞かれるわ。でも、そうだ、窓口で急に聞かれるとは。ここで、「はい、眠いんです」とか言ったら、「じゃあ、帰って寝ろ」とか言われてしまう(いや、言われないか)。
 「あのー、ですね、仕事中にですね、日中、強烈な眠気に襲われるようなアレでして、睡眠? 障害? その、血糖ですか? そういうのとか、検査してもらいたいみたいな」
 「……はい」

問診票と戦う

 問診票を渡されて、汚い字を記入していく(俺なりに努力はしている)。
 「症状」の欄で戸惑う。
 「症状:眠気」。
 いや、眠気は症状じゃないだろ。おおよそみんなだいたい眠くなるだろ。猫なんか重病だろうが。
 「症状:眠気(日中)」
 これでいいか? でも、昼間も眠くなるだろ。
 「症状:眠気(日中)異常に強い」
 あれ、なんか変か? 日中? 日本と中国? ちょっと待て、落ち着け、俺はさっき受付でなんて言った?
 「症状:眠気(日中)異常に強い 睡眠障害
 これでいいか。あれ、しかし、なんで患者が勝手に病名みたいなの決めてるの? 医師免許に喧嘩売ってんの? でも、これボールペンだから消せない。
 「症状:眠気(日中) 睡眠障害?」
 これでいいか、たぶん。
 
 で、生活習慣の「飲酒」の欄でまた戸惑う。
 「お酒 1日___合」
 「合?」 なにそれ、日本酒限定? いや、俺、日本酒も飲むけど、今このキーボードの横に、スーパーで買った「純米吟醸 越の寒中梅 越後杜氏 細川忠清」とかいうのがあるけど、あんまり飲まないし。もうちょっとその、えー、日本酒って何度くらいだっけ? でも、だいたい俺、合とかわかんないし、なんかちっちゃいぐい呑みたいなので飲む。つーか、若者の日本酒離れ知らないの? 合もわかんない。もっとその、度量衡みたいなのあるじゃん、始皇帝だって、みんなが混乱するからってさ。ミリリットルとかで行こうぜ。でも、結局ミリリットルにしたところで俺の酒量を日本酒に換算するやりかたわかんない。
 「お酒 缶ビール(350ml缶)1〜2本 
 よし、これでいいだろ。この「合」を消すことによる強い意志表示が、なみなみならぬ決意を感じさせるね。「合」を消すは「業」を消すにも通じるし、……いや、もうどうでもいい。
 俺は棚にあった『きょうの猫村さん』を読み始めた。今はしばし、この先のことを忘れていたいから。

診察

 『きょうの猫村さん』おもしれー、と思い始めた瞬間、ガチャっと真横の扉が開いて、看護婦さん(politically incorrect)が「黄金頭太郎さん、どうぞ」と言う。びっくりして跳ね上がったようになる。いよいよだ。いよいよ……だ。俺の緊張は高まる。
 ドアを開けたすぐ左に先生の机があり、その前に先生座っておられる。細身長身白髪、どことなく死んだ父方の祖父を思い出す。
 「今日はどうされました?」
 「えーとですねー……」
 予習どおりに話す。親が糖尿病だとかも話す。すごく眠い→糖尿病の親に「血糖じゃないか」と指摘される→じゃあ、一度お医者さんに、というストーリー。そうさ、親に指摘とかされてねえし、ストーリーだ。でも、一応、というか、実際そうなのだけれども、自分が眠気ごときで(たぶんこの考え方はよくないのだろうが、我が身のこととなるとどうも)わざわざお医者さんに出向くというところの拠り所は、おかしな話だが糖尿病の可能性というところにあるのだ。なんとなく。
 が、一通り話し終えたのちに先生のおっしゃることは違った。
 「まだなんとも言えないけれどね、話を聞く限りは、睡眠時無呼吸症候群の可能性がありそうだね」
 え、そっちなの?
 ということで、「関係あるかわかりませんが」と前置きし、父が最近まさにそれだとわかったとかいう話をする。ふーむ。
 と、聴診器で胸を聞いたあと、首筋に手をあてて言う。
 「汗はよくかくの? 前から?」
 え?
 あ、俺、ずいぶん汗をだらだら流しているじゃないか。アハハー。
 「あ、そうです、けっこう汗っかきです、はい」
 と答えたんだけど、いや、まあ、それはそれで間違ってないんだけどさ、
 あのね、俺がね、今ね、だらだら汗流してるのはね、
 具体的にはね、
 注射が怖いからに決まってんだろ!

ちゅうしゃ!

 「最近、健康診断とかは?」
 「いや、ぜんぜん、してないです」
 「血糖だけなら、指先をちょっとやるだけなんだけど、それじゃあ全部調べておきましょうか」
 「あ、お願いします」
 ……やっぱりこう言うしかないよな。じゃあ、あっちで、と、もう看護師さんがなんか用意してんの。
 処刑台?
 中国で死刑になるって、どんな気持ち? よくわかんない?
 左手を出す。
 「はい、ちょっと縛りますねー」
 おう、おあ。
 「はい、右指を内側に握りこんでくださいねー」
 ぇう、おぃ。ギュー。
 汗ダラダラ。ダラーラ
 「はい、それじゃはじめまーす」
 すピッ、ちゅい、ちゃーちゃーちゃー、ああ、血、血ィ出てる、ああああひえー、うへへ。うわ。ぁぁぁぅ。
 「気持ち悪くありませんか」
 「いや、だぃじょうぶです」
 あぁ、ぉ? 終わる、もういっぱいあふれでちゃう、いや、もう終わりなのね? え、もう一本? いゃ、もうれないよぅぅぅ。もう勘弁してくんさいぃぃ。
 二本目絶賛採血中。と、気づくと先生も横に来ている。この痴態を眺めに来たのか? あ、でも、こんどこそ終わりそう。針が抜かれる。もう俺、汗だらけ。って、針抜いたあと、ちょっとプクっと残った血を、なんかのディジタル機器にこすりつけた。あ、血糖値の簡易測定みてえなの? あ、ああ、そうなの、もうどうでもいい、好きにして……。
 「120。まあ、普通ですね」

けんにょう!

 「それじゃあ、結果は月曜日に出ますので、それ以降に来て下さい。今日のところはお薬出しませんが、構いませんね?」
 「いや、注射で精神がちょっとおかしくなったから、なんか安定剤よこせ、うそ、ごめん、マジ、じゃあ。わかった。それじゃ」
 と、注射のあとをぎゅーっと押さえつけて待合室に戻る俺。またドアの横で『きょうの猫村さん』を手にとったところ……、ガチャ、ビクッ。先生が顔を出す。
 「あのね、トイレの方に紙コップあるから、検尿して、棚に戻しておいてください」
 「は、はい、棚……ですか」
 え、お前が何を言ってるかよくわからない。棚ってなんだ? どんなトイレ? と、ともかく一呼吸おいてトイレに行く。ドアを開ける。なかはは広い。洗面台と普通の洋式便座がひとつある。そして棚があった。便座の右側に、曇りガラスの引き戸がある。その中に紙コップひとつある。開けてみると、その紙コップには「キンアタマ様」と書かれている。
 え? いつ? いつの間に? なんの手品? 俺が診察を受けている間に、誰かが先回りしていたの? と、棚の奥を見ると、向こう側にも扉があるじゃないか。なんと、このトイレはあっち側の、診察室の控え室? 事務窓口の奥? と、直結していたのだ。なるほど、このシステムによって、山の手のお嬢様学校の制服を着た美少女が恥じらいながら検尿紙コップを持って待合室を通ってなんらかのパニック、というような事態を避けられるということなのか。というか、最近の病院はこうなっていたのか! フハッ、これには驚いたね。注射のショックも少し和らぐ。なるほど、いいじゃないか。というか、この検尿通路の小窓から飯とか差し入れられたら、立派な独房じゃないか。まさに便所飯。ゲラゲラ。血を抜かれ、尿までとられたのに陽気なサザエさん。よくわからない。瀉血効果で精神が安定したのかもしれない。リストカットの代わりに献血を! 俺は御免被るが。

はじまりのおわり

 そして俺は3,030円の診療費を払い、医院をあとにした。初診料270点、検査739点。よくわからない。ただ、血の検査結果が出るのは楽しみだ。そのくらいは楽しみじゃないとやっていられない。男ならいつかは飲み屋で「γ-GTの数字がさぁ……」とか愚痴りたいというような夢がある。コレ(小指を立てる)がコレ(両人差し指を立てて頭につける)だから、これにてドロン、そんな夢があるのだ……。

  帰り道、誰かの家の軒先のアベリア、数え切れないほどの蕾。
  そのすべてが咲き、すべてが咲き終わったとき、アベリアの長い夏は終わる。
  そう、アベリアの長い夏も、いつかは終わるのだ。