自分の自覚と記憶を信頼できないということ

 日中に襲われる強烈な眠気。土曜日、近くの内科に行き、話をした。話をしたら、「ひょっとしたら睡眠時無呼吸症候群かもしれない」と言われた。血液検査もしたが、結果が出るのは明日だ。いずれにせよ、まだ睡眠時無呼吸症候群かどうかという結果が出るのは先のことだ。
 というわけで、俺はこの週末を「睡眠時無呼吸症候群かもしれない症候群」というような状態で過ごした。予断は禁物だし、すべては医師が判断したのちに決まることだ。とはいえ、一応の可能性を提示された以上、いろいろと睡眠時無呼吸症候群についてネットでものを読んだり、つらつら考えたりとせずにはおられなかった。ともかく、医師の判断だ。
 ……と、俺が医師を信頼しているのは、医師を信頼しているという面ももちろんあるにしても、それ以上に自分を信頼していないからだ。「自分が睡眠時無呼吸症候群かどうか」などということはもちろん自分で判断出来ない。そうでなく、そもそも「自分が睡眠障害か」というところが疑わしい。
 自覚はある。ものすごく強烈に眠い。それは何度か書いた通りだ。ただ。その自覚が信頼できない。ひょっとしたら、仕事や人生から逃げたいがために、嘘をついているのではないか、ということだ。自覚したような気になっている、眠くなったような気になっている。あるいは、ただぼんやりと過ごしたその夜、その思い返す瞬間に記憶が捏造されているのかもしれない。俺は摸造記憶をもとに医者に行っているのかもしれない。そんな思いがある。今回だって、職場でまわりから「ちょっと普通の眠気には見えない」などと言われなければ、医者にも行ってないだろう。


 俺は以前、隣人の奇行、騒音に悩み、大家に相談したことがあった。そのときにこんなことを書いた。

 そうだ、俺は俺が病気である可能性、普通の人ならなんとも思わない音に、過敏に反応しているのではないかという疑念を抱かないわけではない。しかし、それでも自分の中のありとあらゆる理性を動員して、さらにはしばらく泣き寝入りしてみるという過程、慎重さ、そういったものから、判断したのだ。瞬間的な怒り、ではない。泣き寝入りできるものなら、泣き寝入りしたいのだが、やむにやまれず、泣きつきを選んでみたのだ。自分自身に対する疑念……それは、「そもそも俺は音を聞いたのか?」、「幻聴、幻覚ではなかったのか」というラインまで真面目に取り込み、その上での判断だ。自分のすることを信じる、信頼するか、というのではなく、自分の経験の存在を信じるか、否か、そこまで踏み込まざるを得ない。

 しかし、やはりどこかで、どこかのラインで自分の理性、経験、感覚を信じなければいけない。そうでなくては、完全な懐疑にゆだねては、靴を履いて外に出ることすらできない。さまざまな可能性を考慮しながらも、やはり自分の見聞きするものをベースにしなければならない。もしも、それが社会通念から外れていたら、その社会からの指摘によって自分の自分への信ずることがらについて再検討するよりほかない。そういう意味で、前回の抗議について逆指弾ということはなかったし、また、別の事柄について俺が恐れるような結果になったことはない。ただ、今まで連勝していたからといって、次のレースに勝てるとは限らないのだ。幻聴や幻覚、ニセの記憶がどこから滑り込んでくるか、いつ滑り込んでくるか、いつ俺が操り人形になっているかはわかりはしない。勝っていた記憶だって捏造かもしれない。

 だから俺は日記をつける。つけようと思う。今回の件についても、異変を感じ始めたそのときに、そのことを記しておくべきだった。それは失策だ。もちろん、その「感じ」が信頼できるものかどうかはわからない。ただし、その「感じ」がいつからあったかということについて、残された脳の外部の日記について裏切りは少ないに考えられる。連綿と続く自分が自分であると考えている意識は、連綿と続いているがゆえに、自動的に上書き保存されていくように、その過去について信頼できないところがある。データそのもの、判断力そのものが書き換えられていることに気づかないことがあるかもしれない。そういった意味で、日記は一つの補助になる。本当は、一日一日の脳を外付けハードディスクにバックアップできて、見たもの、聴いたものを、第三者が確認できる形でアウトプットできるようなのが理想だろう。ただし、それは今のところ無理な相談だし、デメリットもありそうだ。だから俺は日記に託すしかないし、あるいは、そのときどきに、まるでニセのアリバイづくりや印象づけを行う犯罪者のように、第三者に語りかけておくしかないのだ。それがたとえ、より大きな偽りであるという可能性を孕んでいたとしても。

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20071109/p4


 俺はまた、まったくこのようなことを感じている。俺はいつも、こんなことを感じている。自分の自覚というか、経験というか、記憶というものを信じていないところがある。人間の記憶や経験なんて、そんなに信用できないと思うところがあって、もちろんそれは自分についても適用される。いや、人の脳みそのことなんてわかりやしないから、自分自身についてのみ信用できないということが信用できるのだ。
 ……フィリップ・K・ディックの読みすぎだろうか。ひょっとしたらこの認識の段階で、パラノイアとかそういうところに踏み込んでいるかもしれない。とはいえ、たとえば、今回自分が睡眠時無呼吸症候群かもしれないと聞いたとたん、「そういえば朝寝ぼけて布団に入ったままのとき、なんだか息をするのを忘れているようになって、深いため息だけで呼吸してるようなことがたまにあるけれども、あれ、ひょっとしたら関係あるのか?」などと思ってしまう自分を信じられる? 俺は無理。俺にはたしかにその自覚も記憶もあるけれども、あまりにも「自分が睡眠時無呼吸症候群かもしれない」というストーリーに沿いすぎているし、都合がよすぎる。記憶が嘘くさい。
 とはいえ、俺が朝たまにそんな風になって、「呼吸する何かが寝ぼけているのかな」などと思うことがあるのは確かだ。俺は今この瞬間たしかにそう思ってることは嘘偽りないのだ。しかし、今この瞬間が過去の客観的な出来事をどうやって保証しようか。多く見積もっても、五分五分の確率で、俺はそれを思い出したときにそれを捏造したんじゃないかと思う。
 だからやはりログは必要なんだ。もしも俺が俺の日記から「たまに朝、なんか布団の中で半分寝てるときに、息するのを忘れることがある」とか書いていたら、ある程度は参考になるかもしれない。外部の記憶が必要だ。脳みそは信用できない。俺の脳みそは俺に都合のよいように現実から受けた情報を改変してしまうし、そもそも脳は視覚などにおいてそのように情報を処理しているものであって、さらにこのような連続性のある、複雑なものについても同じことをしていてもおかしくはないだろう。俺はそう思える。そして将来、俺が今このとき、そう思っていたということを確かめるために、俺はこうやってこのように記録している。そんな話だ。

ログ漁り

 先々週の土曜日に発症した咳がしつこい。咳が止まらなくて困る、ということもないのだが、睡眠を阻害する。眠りに入りにくいし、明け方、呼吸が止まって苦しくなって目が醒める。それを何度も繰り返す。気づくと、いびきのような、そうでないような「あ゛ーーーー」という声を出していることもある。痰がすんなりでなくて、息が詰まるような、そんな感じ。市販の風邪薬や去痰薬では歯が立たないのか……?

ふれあいを求めてホスピタルへ行く - 関内関外日記(跡地)

 これは喘息っぽい吸引薬を処方され、それを服用していたらおさまった。それ以来、こんな風な咳はないし、これはちょっと関係ないか? よくわからない。

その前に、ブラキシズムと自分の関係を述べておくべきだった。俺はこのところ、ブラキシズムとともに目覚めることが多い。気づいたら、歯をかしかしと横にすりあわせているのだ(おそらく、グラインディング)。

 ずっと前から、たまにあった。たまにあって、「これが歯ぎしりというものだろうか?」などと思っていた。思っていたが、その程度のものだった。が、このところ多すぎる。どうすべきか。その答えとして、この商品を見つけたのだった。Amazonで。

噛み合わなかった俺の人生 - 関内関外日記(跡地)


 これはすっかり忘れていたが、ブラキシズムに悩み、マウスピースなど使っていたこともあった。これはどうしたんだっけ。たしか、けっこう長く使っていた。一回買い換えたような気もする。一ヶ月後の記録はある。

 とはいえ、いつの間にか使わなくなっていた。記録が足りない。

 小学生のころ、中学受験のための塾に通っていた。時間は夜だ。俺は授業中の眠気に悩まされた。朝昼と学校に行って、夜塾に行くと眠くなる。当たり前の話だ。塾は嫌いじゃなかったし、小学校の教師に比べて、塾の講師の講義がどれだけ刺激的で面白かったことか。でも、眠くなるのだ。

缶コーヒーの思い出 - 関内関外日記(跡地)

 これはこの日記の中でもかなり古い部類。そして、話の内容もそうとうに古い部類。まさか小学生のころから睡眠時無呼吸症候群だったり、睡眠障害だったとも思えないが。しかし、これ以降も、中学、高校とともかく授業中は寝てばっかりいたように思う。授業中に金縛りみたいになったこともあった。

 ただ、夜中に二回起きた。一回目は水をごくごく何杯も飲んで、二回目は水を一杯だけ飲んだ。またすぐに眠れた。この点の俺の再入眠のスキルは相当なものだと思う。「夜中に喉が渇く」と「夜中に頻尿」は昔から慣れっこだ。そのとき、意識しつつ、意識しない。起きつつ、起きない。起きた自分に気づかないよう気をつかいながら気を生じさせない。おお、無我の境地。二回目の水一杯は、一回目の最後に一杯満たして、ちゃぶ台の上に用意しておいたものだ。

今朝は完全に寝過ごしたと思ったのは思い違いだったり - 関内関外日記(跡地)

 夜中に喉が渇いて枕元の水を飲む……というのはほぼ日課だ。必ず枕元にはペットボトルか水筒を用意している。トイレにも行く。俺はこれ、正直言って見て見ぬふりをしてきた糖尿病の資質のせいかと思っていたのだが、あるいは眠りが浅いがために、ふつうの人なら起きない程度の乾きや尿意に反応していたという可能性などもあるのだろうか。このあたりはよくわからない。ただ、俺は昔からそんなに鼻の通りがよい方ではなく、寝ても覚めても口の呼吸に頼っているところはあって、そのあたりも関係しているだろうか。

 ……うーん、呼吸とか息とか眠りとかで適当に検索してみた。正直、このくらい、少々不健康に生きている人間なら、誰にでもあるんじゃないかというか、そんな気もするが、よくわからない。