90年有馬記念で復活に導いた武豊騎手(41)は「競馬の歴史にすごい名を残した馬に2度騎乗させてもらって、本当にありがたかったし誇りに思います」と悼んだ。90年安田記念でも勝って2戦2勝。ラストラン時は21歳、デビュー4年目。「オグリを知らない若いファンもいらっしゃるので、すごさを伝えたい」と語った。
武豊騎手「2度の騎乗、誇りに思います」 - 競馬ニュース : nikkansports.com
かのマルゼンスキーの引退式において、次のような横断幕が掲示されたという。
「さようなら、マルゼンスキー。語り継ごう、おまえの強さを」
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競馬は語られるもの、語り継がれるものだ。もし、私が競馬に興味を持ち始めたころ、別冊宝島競馬読本がなかったとしたら、今まで競馬を続けていたかどうかわからない。あの本の中で語られた昭和の名馬、無名馬たちの存在が、またそのように語られる世界があるということが、どれだけ大きかったことか。競馬がつなぐもの、競走記録、血統表、そして人々の語り、これである。語りなくして「かの」マルゼンスキーとは言えぬ。
だから私もオグリキャップを語り継ぎたいのだ、誰に頼まれたわけでもないのに。が、しかし、私はオグリキャップの現役時代をよく知らぬ。最後の有馬記念がニュースで騒がれていたのは知っているが、その程度である。
すると私は、オグリワンを語り継がなければならないのか。そうだ、私が初めて日本ダービーを日本ダービーとして意識したあの日本ダービーに、オグリワンの名があった。
たしかにある。勝ったのはタヤスツヨシ、2着にジェニュイン。そう、サンデーサイレンス席巻のはじまった年のダービーである。なにせ、サンデーサイレンス最良の産駒といわれたフジキセキを欠いてこの結果なのである。私の競馬はサンデーサイレンス支配のはじまりとともに始まった。私はあまりサンデーサイレンス一色の競馬は好きではなかった。ここに私の馬券的不幸があり、また、一時競馬から興味が薄れた原因があった。
ともかく、そのダービーに、オグリワンがいたのだ。オグリワンが日本ダービーに挑むまでの過程は以下のごとくである。
このオグリワンに◎を打った男がいた。後に田原成貴のムチが《素振りをしているときに偶然顔にあたった》ハシゼンである。「競馬の予想には、こういうことをするやつもいるのか」。そのとき私が感じたのは率直に言ってこれである。それ以上でもそれ以下でもない。もちろん、オグリキャップがどんな馬で、どれだけの存在であったかくらいは知っていた。しかし、私にとっては目の前の競馬、目の前のオグリワン、目の前の俺の本命のナリタキングオーが大事であった。
オグリワン。地方に転出後も、南関東に顔を出すこともなく、「おう、こいつがオグリワンか」と思う機会もなかった。パーソナリティワンとは違うのだった。ただ、忘れることのない存在ではある。忘れがたい最初のダービーに出てきた一頭。イブキラジョウモンの父がアウザールだということは忘れても、オグリワンのことは忘れないだろう。おそらく。
……かように、オグリキャップを種牡馬として語るとなると、ネタ的になる。あとは、スコッティーザサムライ(現:Rocks Rule)のことくらいだろうか。
もちろん、競馬データベースなどを見ていれば、オグリキャップ産駒にイガノタラの名前などを見つけ懐かしがるとともに、「イガノビワもビワハヤヒデ産駒でそこそこ走ってた」などと思い出すのだが、だからなんだというのか。
まったくの与太話である。しかし、こうでもしなければ、イガノビワを思い出す機会はない。南関東の準重賞を勝ち負けした程度の馬を思い出す機会は。そしてまた、南関東の準重賞の過去十年、二十年の成績が読み返されることも少なく、イガノビワは子を残さぬ。語られることのみによって存在するといったら、過言だろうか?
だから、私は思うのだ。ゆえに、まったくオグリキャップは偉大である、と。