僕の生まれた日は、いつもいつも、こんな……


 ラーメン博物館売店に、「あなたの生まれた日の新聞一面をプリントアウトできます」というようなマシーンがあった。観光地などによくあるものだ。読売新聞のものと、スポニチのものだった。スポニチというのもあるのか。競馬だったらよいだろうし、野球でもよい、まったく知らない芸能人のスキャンダルでもよい、ただなとなく古い新聞が読みたい、俺は300円投じた。昭和54年2月22日付けのスポーツニッポン、略称<スポニチ>からの引用になる。

1979年のベースボール

 「王封じ秘球! 小林」
 「掛布、バット折った」
 阪神タイガースの安芸キャンプで、小林繁掛布雅之とラインバック相手に投げた。そこに王貞治を封じるための秘球があったらしいという内容、これである。
 デイリースポーツでもないのに、この内容でなぜ一面になるのか。答えは明白である。
wikipedia:小林繁

1978年11 月に起きた『江川事件』(『空白の一日』の言葉で知られる)の犠牲となる形で、1979年2月に江川卓との交換トレードで阪神タイガースに移籍

 この、2月のことなのだ。果たして、このシーズン小林繁は次のような成績を残した。

移籍1年目は22勝で最多勝利、2度目の沢村賞を獲得。特に古巣・巨人に対しては8勝0敗の成績で神懸り的な強さを発揮し、巨人キラーとして活躍。古巣に「巨人のエース」の貫禄を見せつけ脅威の存在となる

 記事によれば、ブレイザー監督も「巨人から主力投手が来るなんてことは珍しい。小林を生かさない手はない」と述べている。巨人対策も立てられたのであろう。しかし、やはり小林繁の鬼気のようなものがあったのではないか。
 ちなみに、この年は広島東洋カープが『江夏の21球』で日本シリーズを制し、阪神は4位、巨人は5位であった。
 小林繁は2010年1月に急死した。掛布雅之は2010年3月に事業の失敗から自宅が競売にかけられ、「王貞治ベースボールミュージアム」は、2010年7月に後楽園球場ではなく福岡ヤフードーム内にオープンした。

1979年のおすぎとピーコ

 広告に目を移す。平凡パンチの広告が目を引く。一番左の大きな項目にこうある。
 「★70年代を飾る最後のキラ星……80年代への橋渡し教教祖」
 「ユニークなおかま兄弟」
 「おすぎとピーコ」
 おすぎとピーコ、これである。平凡パンチによれば、おすぎとピーコが70年代を飾る最後のキラ星であり、80年代への橋渡しをするような存在だったという。俺はおすぎとピーコがどのようにしてテレビに、マスメディアに出てきたのかよくわからない。ただ、今もおすぎとピーコが健在であることは知っている。今年でおすぎは65歳になり、ピーコも同い年である。
 その横にはこのようにある。
 「山本晋也監督と10代の女のコが<衝撃の>SEXティーチ・イン!!」
 ティーチ・イン、これである。俺も10代の女のコにティーチ・インしたい、もしくはされたい。ティーチ・インの意味がよくわからない。

学内討論集会。大学内で、教授・学生が集まって、時事問題などを徹底的に討議する集会。転じて、広く討論集会をいう。

ティーチインとは - コトバンク

 俺はティーチ・インしたくなくなった。
 平凡パンチの広告の左の方にはとグラビアの紹介があるが、岸本加世子しか名前がわからない。岸本加世子のプロフィールを見ると、次のような記述がある。
wikipedia:岸本加世子

1976年、横浜ドリームランドで行われた西城秀樹のコンサートを見に行った時に当時の西城の事務所である芸映にスカウトされに所属。

 横浜ドリームランドは2002年2月17日に閉園した。
 俺はまだ生まれたばかりだったので、横浜ドリームランドのことも知らなかった。横浜ドリームランドを知るのはしばらく先のことである。横浜ドリームランドが閉園するのはまだまだもっと先のことで、閉園した横浜ドリームランドを懐かしむのはさらにさらにずっと先のことだった。バース、掛布、岡田のクリーンナップが猛威をふるうのも先のことだったし、王貞治がホークスの顔になるのも先で、小林繁江川卓がCMで共演するのもまだまだ未来のことだった。
 俺はまだ生まれたばかりだったので、母親の乳を吸うたり、好きなときに泣きわめいて、ときどき夢を見ていればいいだけだったのだ。