けいおん!!の終わりとすばらしいはじまりについて

 2010年9月15日の朝のことだ。それはいつもの朝と同じような朝だった。ぼくは国鉄の石川町の駅の構内を歩いて通り過ぎた。路地から路地へのショートカット、いつもと同じはずだった。
 しかし、その日はまったく違っていたのだ。昨晩と今朝で、なにごとも変わってしまっていたのだ。そう、改札に向かう行列、サラリーマン、みながみな手のひらにティーカップと湯気のマークをつけている。すこし誇らしげな顔をして、自らの手のひらを眺めたりしている、太陽にすかしたりしている。
そして、改札を通る。定期券を内ポケットから取り出したりはしない。手のひらを見せる。改札から改札鋏の小気味いいリズム消えて、ただ手のひらを見せる、駅員と見せ合う。中にはおでこに絆創膏をしたサラリーマンもいるし、ぼーっとして柱にぶつかるサラリーマンもいる。灰色の背広の列はどこまでも途切れることなく、階段を登っていく。
 背広とは縁遠いかっこうをして、背広とは縁遠い職場に向かうぼくは、立ち止まってその光景を見ていた。なにが起こったかは明白だった。けいおん!!の最終回がすべてを変えてしまったのだ。彼らを変えてしまったのだ。ぼくにはそのことが痛いほどわかったし、泣きたくなるほどうれしいことであるはずだった。だが、なにかがぼくの中でしくしく痛んだのだった。
 これは、どういうことなんだろう。なにかが違うような気がする。ぼくも、けいおんの列に加わりたいはずなんだ。なのに、どうして。ひょっとしたら、ストライクウィッチーズ2に夢中になっていたせいだろうか。そこに負い目を感じているんだろうか?

 「そうでしょうか?」と、あずにゃん
 「それよりあなたは、第13話で勝手にわたしを一人にして、けいおんを終わらせてしまったんじゃないですか? いいえ、それ以前にずっと、きちんと時間が進む原作にそれを感じていた。それで、終わりの予感だけで終わらせてしまう。わかれの予感だけでわかれてしまう。ちがいますか?」

 ……まったくそのとおりだ。ぼくは予感したとたんに、あっという間に収束させてしまうんだ。なにもかも終わらせてしまう。そんな「感じ」を受けただけで、その時点でもうそれはわかってしまい、おわってしまう。終わらせてしまう。学校も、人間関係も、なにもかもだ。
 だから、ぼくには、けいおん!によって追体験できる体験が欠けている。まったく欠けている。なにかに打ち込んだこともないし、なにかを達成したこともない。一生のうちでスポットライトを浴びるのは、夜の横断歩道を渡るときだけ。思い出らしい思い出もなく、部屋の中は100円ショップのろくでもない製品と安酒の空き瓶であふれるばかり。ぼくには体験も達成もなく、ゴミの中で死んでいくんだろう。
 そんなぼくに、今を描くものはつらいんだ。ほら、13話のプールのシーンで、水面に出てきた金髪の子供が「ぼくの浮き輪取って父さん!」って言ったじゃない。あの子供は映画『Teto』の主役でしょ? テトと取ってをかけている。だから、あれからあとのすべての回、卒業もなにもかも、夢なんじゃないのか? 夢であってほしい……。

「今がないんですね」と、あずにゃん
「未来への不安を先取りして、それをすぐに終わらせて、それで追憶にしてしまうんですね」

 だって、しょうがないじゃないか、ぼくは物心がついたときからそうだったし、脳の回路がそんなふうにできているに決まってる。それでもだましだまし生きてきて、このとおり背広を着ることすらできなかった。いや、背広が問題なんじゃない、つまりは、ひとりの友だちもいないし、それで居場所がなくて、大学も出られなかったし、ああいうまともな職にもつけていないということなんだ。だから、あの人たちがけいおんに寄せる追体験に乗ることができない。ストッキングの破れたOLとけいおんのネタで盛り上がることもできない。

 「追体験することはできます。だって、第5話で、あなたは私と一緒になったんですよね? だったら、そのあともずっとそうです。これからも仲間なんです。また、けいおんを思い出せるんですよ」

 ……ぼくが、ぼくがけいおんぶでいいのか? ぼくが、けいおんでいいのか? ぼくも、天使なのか? マジ、天使なのか?
 あずにゃんは、ほんのわずかにほほえむと、すっと姿を消してしまった。

 気がつくと、ぼくはひとりで石川町駅の階段を登っていた。ぼくのほかには誰もいなかった。ステンドグラスには放課後ティータイムのメンバーが描かれていた。階段を登り切ってホームに立つと、なつかしい顔が並んでいた。小学校、中学、高校の同級生たち。記憶の底からまったく浮かび上がってこなかった顔、だけど、すぐに名前も、性格も、思い出も蘇ってきた。驚きだった。ぼくは滂沱の涙をとめることもできず、ただ、みんなと握手をした。そして、ついに言えなかった「ごめん」という言葉、「ありがとう」という言葉、そして、「さようなら」という言葉を口にした。すべては許されたようになって、そして……。
 そしてぼくは、背広を着て、長い列の中にいた。ぼくの前にもぼくと同じようなやつらが並んでいて、ぼくの後ろにもぼくと同じようなやつらが並んでいた。なんだ、みんな一緒だったんだ。そして、手のひらにはくっきりとティーカップと湯気のマーク。やがてぼくは改札を抜けて、満員の電車に乗るだろう。その電車がどこに行くのかはわからない。ただ、ぼくにはすべてがすばらしく思え、みんな大好きだった。すべての約束が果たされたような気がした。不安もなく、後悔もなく、ぼくはただ列が進むのを待っていた……。

 駅から少し離れたところ、橋の上。中村川の薄汚い水面をながめながら、あずにゃんはつぶやいた。
 「また、失敗しちゃった」。
 カエルが一匹、川の中に飛び込んだ。