役人のための文章を書くときわれわれの考えること

 日々の雑務の中のひとつとして役人のための文章を何年か書いてきた。気づいてみたら、この日記ですらそれに則っているのではないかと思った。どう読まれているかは知らないが、曖昧な言い回し、婉曲、言い切りの回避、責任の所在のあやふやさ。
 「それを利用者の方に知ってもらいたいためにやってるんじゃないですか? わかりやすい方がいいんじゃないですか?」 違う。かえって、逆に、詳しくしたがゆえの間違い、これを怖れる。クレームが、問合せがくるのを面倒に思う。料理のできにクレームをつけられるのが嫌だから、最初から飯を作らない方を選ぶ。あるいは、誰も来ない山奧に置いておく。誰も食わないから文句を言わない。主要道路の橋がなければ人はそれに気づくし文句を言うが、少しくらい暗い夜道があったところで、街灯がないことにあまり気づかない。街灯なら気づくとしても、気づかれないものは山ほどある。書類上は、問題ない。売上は、そもそも問題ではない。稼ぐことでなく、使うこと、予算を使い切ることが仕事だから。リスクをとっていい仕事をしたからといって、彼らの給料が上がるのだろうか。少なくとも、ミスをしない方がいい。
 PFI、民間委託に多くの問題点はある。そもそもその分野に適応すべきかという話、雇用の話。あるいは、運営と設備、もっと大きな計画の分断。それは土木の決めることだから。それでも、民間は違うと思うことがある。それが当たり前だったと思うことがある。すっかりこっちが役所脳の恐怖におかされていたのだと気づく。
 役人が高給取りかどうかというと、いろいろの意見もあるだろう。ただ、確実に薄給激務の部分があるにしても、その激務に意味があるのかよくわからない部分もあるのだろうと感じる。書類のための書類、責任の分散のための他課との会議、アリバイ作りの官民協働、クリエイティブでない無駄走り。
 税金を使う以上、どんぶり勘定ではいけない。この経済状況では、さらにだ。だからといって、茶碗勘定くらいは許されていい部分もあるはずだ。お猪口勘定を一千回している人件費がどんぶり以上になる無駄。
 意欲のある人、アイディアのある人も、気づいたら周りに染まっている。足かせが多すぎて、アイディアを形にするのが難しい。無理を通そうとして、露見したらアウトな方法をするほどの価値も、彼の人生や生活と秤に掛けてあるわけでもない。やらないからといって叱られない。そもそも予算がない、という大義名分。しかし、どこか上の方か斜め上の方から降ってくる、現場では必要としていない高級備品。予算を使うのが仕事。効果はあってもなくてもいい。目立たなければ仕分けられない。そんな部分は役所や関係団体、なんとか法人、あるところにはある。
 まったく、俺は役人になりたかった。あるいは、役人体質がまかり通る大企業の従業員に。ただ、俺はそれをするための努力を忌避したし、それに向かったところで精神が破壊されていただろう。いや、破壊されると感じたからこそ、就活などを意識する手前でUターンして部屋にひきこもってニートになったのだった。しかし、そんな最底辺の高卒を、意欲の無さ、無気力さ、向上心のなさ、知識のなさでいらいらさせる、俺よりはるかに単価の高い人たち。階級が違うのだ。
 ただ、こんな階級制度ももう保たない。そこまでこの国に余裕はない。この先どうなるかはわからない。とはいえ、一度大きな船に乗ってしまえば、流冰の海に投げ出される順番はあとの方だ。考える余裕、ヘリコプターに乗って逃げる余裕もあるだろう。カヌーや小型船舶は日々、死に死に死んでいる。中くらいの船も沈む。今から船に乗る人たち、できるだけ大きな船に乗りなさい。精神が破壊されても、まだ乗る余裕のある船に乗りなさい、ぶら下がりなさい、追い出し優先でもやり過ごしなさい。隣の芝生の下から目線で、俺は心底そう思う。

※見出しに「われわれ」とあるのは、レイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』風にしたかったというだけで、本稿はあくまで「わたし」の偏狭で個人的な体験と見識に基づくものです。

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)