そそり立つ「I」 映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』

 

おれは英語というものをよく知らぬ、知らぬが原題が『I, Daniel Blake』というところにひっかかる。「I am」ではないのだ、「I」なのだ。そしてそれは、国家という官僚組織、それを民営化してさらに人を人扱いしなくなった世界、それに対して毅然として立ち上がる一本の線に思えてならない。「I」のない世界に一本の柱。そんな印象を受ける。

主人公は40年大工をやってきて、心臓疾患で医師から仕事を止められている労働者。ところが、役所に保護を申し出てもあれやこれやで排除される。機械的な質問、ネットを通しでなくては申し込みすら出来ないシステム。そんなところで、二人の子供を持つシングルマザーと出会う。はたして彼らに安定は訪れるのか?

そんな話である。主人公には人徳があり、隣人の黒人(中国とネットを介した取引で一儲けを狙っている)や、職場関係の人間から心配もされる。それでもなお、役所からは排除される。たらい回しにされる。ネットを使えない人間には、なにもできないような仕組みに阻まれる。医師からは仕事ができないと言われながら、役所はそれを否定する。

他人事としては見ていられなかった。おれとて、ささやかな行政の福祉に頼ろうかと思っているところである(その詳細については結果が出てから書く)。しょせん、福祉行政なぞというものは、絵に描いた餅にすぎないのではないのか。一方で、下々の人間は支え合うところがある。そのように描かれている。

と、そこで「一方的な見方ではないのか?」という疑問も出てこよう。役人の立場にすれば、膨大な人数の申請者を機械的にでもさばかなければいけない。そのためのネット申請であり、マニュアルに沿った対処である、と。

とはいえ、そうさせるに至った木っ端役人の上の上の政治的な決定はどうなのだ、ということにはなろう。そこに「I」が突き刺さるのだ。「I, Daniel Blake」と。

なんというか、何度も見返したくなる映画だった。日本の福祉行政がどうなのか知らぬ。フードバンク的なものがどうなの知らぬ。しかし、同じような道をひいているように思えてならぬ。やがておれも申請し、排除されるのであろう。それでも、「わたし」の誇りがあるのならば、それを捨てないようにしたいものではあるが。