それでも俺はコースターを止められない


 この二日くらい、俺の頭の中を占領していっこうに出て行かないニュースがある。

倉野内さんは発車前、一緒に乗っていた知人に「バーがしっかり下りない」と話していたという。

 遊園地のコースターでの落下死亡事故。俺はもとより、高所恐怖症だからどんなコースターにも乗りたくない。観覧車にも、外が見えるエレベータにも、乗りたくない。問題はそこではない。この男性が、ロックの不完全さについて気づいてたらしいというところだ。気づいていながらも、そのままコースターは発進し、彼は死んだ。
 もちろん、コースターの構造上の欠陥、すなわちロック不完全でも発車してしまうこととか、あるいは係員のマニュアルの、あるいは運用のミスもあるだろう。それらはそれらで、きちんと検証、再発防止を講じるべきだ。法的に罪があれば、それに応じてなんらかの処断がくだされればいい。
 ただ、それはそれだ。俺の頭の中を占めるのは、倉野内さんは発車前、一緒に乗っていた知人に「バーがしっかり下りない」と話していたということだ。

 ここからは、俺の頭の中のことだ。今回の事件をもとにしているが、じっさいとは関係ない。
 ……俺はコースターの座席にいる。バーを下ろす。なにか、しっくりこない感じがする。バーが降りきっていないのではないか、と感じる。ただ、このコースターに乗るのは初めてなので、これが正常か異常かわからない。まわりのお客さんはそれぞれにとくに疑問にも思っていないようだ。係員が通り過ぎるが、とくにリアクションもない。なんとなく、バーがきっちり下りていないような気がする。ロックしていないような気がする。ひょっとしたら、発進と同時にきっちりはまる仕組みなのだろうか。隣の人を見るが、よくわからない。ただ、このようなコースター、万が一のことがあったら危険だろうから、ロックしてない状態の人がいながら動き出すことはないだろう。セーフティが働くと考えるのが普通のはずだ。俺がジェットコースターに乗り慣れていないから、こう感じてるに違いない。ここで係員に声を掛けるのは気が引ける。コースターにびびってるのは確かだが、そうまわりに思われても恥ずかしい。また、係員が通り過ぎる。どうする? いや、もう出発するのか。たぶん、大丈夫だろう。係員の目を見ても、とくに反応しなかったし。なに、ちょっとのがまんだ。……異常のブザー鳴ってくれないかな。
 ガタン、ギギギ。コースターは動き出す。ゆっくりと、ゆっくりと坂を登る。今さら、止めてもらう方法はない。大丈夫だ、きっと。
 頂点、静止、急下降。
 疾走するコースター、カーブ、遠心力、ロックがかかっていないという確信、打ち消そうとしてもそこにある現実。もう声出しても無駄。あらん限りの力で踏ん張る、しがみつく、それでも容赦なくコースターは進み、なにをどうしようとも耐えられないところに俺を連れて行く……。

 まったく。まったく、なんど頭の中でコースターを走らせても、俺は発進を止められない。そのたびに死ぬ想像しかできない。それもいい死に方ではない。絶望と後悔。いや、たぶんひたすらの後悔。ちょっとしたことなのだ、ちょっと係員に声をかけていたら、その場で異常はわかったはずだし、コースターの運行は止められていたはずだ。俺が、こんな目に遭うことなんてなかったんだ。なにも特別なことをする必要もなかった。考える時間も、行動する時間もあった。迷っている間になんども降りるチャンスはあった。べつに、俺の勘違いでもよかった。恥をかいてもよかったし、やっぱり怖いからと乗るのをやめてもよかった。笑いものになってもかまわなかった。そんなことが、こんなことになる代償になんてならない。調べてくれといえば調べてくれただろうし、降りたいといえば降ろしてくれただろう。なにも強制的なことではないのだ。それなのに、考えるひまはあったのに、決断を誤った。いや、決断なんて大仰なものじゃない、判断を誤った。ほんの一瞬の、ささいな判断。そんな細かいミスは、生活の中でなんども出てくるものだ。なんとなくわかっていながら、やはりしでかしてしまうミス。積み重ねた皿のバランスが悪いと思いつつも、そのままにしておいて割ってしまう。自転車に乗って、なにか落としたような気がしたが、めんどうくさいので気のせいということにして、あとから財布紛失の処理に忙殺される。そんなことは、なんどもある。なんどでもあった。でも、決定的なところで、流されてしまう、流してしまう、そのことで、死ぬ。あともどりできないことになる。あまりに大きすぎる代償だ。それでも、もう時間はもどらない。ありありと思い出せるほど、迷っていた時間は長かった、チャンスはあった。いくらでもあった。予見はできた。それを邪魔するものは外になかった。それなのに、俺は声を出せなかった。

 生活の中で、いくらでも、するかしないか迷う局面はある。しないからといって、払う代償は小さいことがほとんどだ。ほとんどだが、ときに、その「しない」があまりに大きいこともある。たとえば、交通事故、死ぬにしても、殺すにしても、己の判断ミスを呪いながら、それが起きるのを見ている何秒間というものもあるだろう。もちろん、「する」ことでも同様だ。同様なんだ。
 俺は、おそろしい。判断力を鍛えよう、自分の疑問や懸念を恥ずかしがることなく人に伝えよう、それはもっともだ。もちろん、機械のいろいろな仕組みや、運用のシステムについて、こと人命がかかわるようなものについては、いくらでも改良されていくべきだ。それも当たり前だ。だけれども、やはりどこかで、俺の判断ミスがあって、取り返しがつかない。そして、俺はそれに気づいて、絶望と後悔の中で死んでいく。その瞬間について考えると、俺は頭がおかしくなりそうだ。
 ……いや、なんてばかばかしいんだ。俺はとっくに頭がおかしくなっているはずなんだ。頭の中の話じゃない、この現実で。そうだ、もっと長いスパンで、俺はまさに人生について「しない」ことを選んで、落ちていこうとしてる。みじめな人生の終末で、あのときはまだなにかできる余裕があったと思える、そういう段階なのに、今の俺は流そうとしている。わかっているが、声が出ない。そして、コースターは動き出す。