叶えられた祈りと呪い〜『マギカ☆まどか』は人生だ

叶えられなかった祈りより、叶えられた祈りのうえにより多くの涙が流される。

 『魔法少女まどか☆マギカ』のオープニング冒頭をみるたびに、この言葉が頭をよぎります。アビラの聖テレサという聖人の言葉ですが、私が知ったのはトルーマン・カポーティの小説によってです。私にその宗教的な意義はわからないので、そのまま受け取ります。
 オープニングのまどかは、言うまでもない、泣いております。いまだ本編では叶えられていない、魔法少女の装束で涙を流しているのです。私にはなにか、これは彼女が魔法少女になったことにより、より多くのものを失い泣いていると、そのようにしか見えないのです。願い=祈りが叶ったのに、より多くの涙が流される。空も泣く。
 私は『まどか☆マギカ』のテーマが祈りである、これに他ならぬと確信しております。ただし、主人公がなにかよいことを祈り、それが叶えられる、そういう簡単な話にはならない。なぜならば、祈りは呪いと鏡像であり、表裏一体であり、不二のものであると、そう明示されているからです。
 巴マミさんが、「ほかの誰かのために願いを使えるのか?」と言うさやかさんを諭すシーンを思い出してください。誰かへの祈り、願いというものの持つ意味を指し示しています。それは本当にその相手のためなのか、「ために」なるのか。
 あるいは、ソウルジェムとグリーフシードの関係からも、祈りと呪いが交換可能なものであると、目に見えるかたちで表現しています。すなわち、魔女と魔法少女も交換可能なはずです。神は不在のようですが、果たして巴マミさんの再登場はあるのでしょうか。
 さて、このような祈り・願いと呪いというのものは、べつに魔法の世界の話ではありません。「夢」別名「呪い」で胸が痛くて、とライムスターが歌うがごとくです。あるいは、誰かへの祈り・願いが呪いに転化してしまうことは、たとえば子供への過剰な期待が引き起こした悲劇などと書けば、いろいろのティピカルですらある事件が思い浮かぶことでしょう。
 そういうわけで、私には上條恭介君には祈りとともに呪いがかけられてしまったのだと思います。彼がこのまま物語からフェードアウトするのであれば幸せなことですが、あるいは腕が治ってしまったがゆえに直面する地獄があるのかもしれません。それとも、呪いはさやかが魔法少女たる地獄で引きうけるのでしょうか。
 鹿目まどかの祈り。彼女は、まだはっきりとした答えを見つけられないでいます。ただ、現在のだめな自分であることを捨て去り、誰かの役に立てればいい。誰かの役に立つ魔法少女たること自体が願いかもしれない、ということが示唆されています。

道徳律というのはわかりやすいものである。
それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。
それが自分に祝福を贈るということである。
世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。
この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。

モラルハザードの構造 - 内田樹の研究室

 畢竟ずるに、鹿目まどか魔法少女としての資質が計り知れぬのは、自己のありように祈りの方向が向いているからではないだろうか。巴マミは生存や身体を得ようとしただけです。しかし、まどかは(駄目な)自己の消滅すら内包する、危険な祈りを抱いている。
 これが、いかに解決の、あるいは破壊の道筋をたどっていくのか。注目せざるを得ないのであります。