俺が合格した大学入試の科目というと、小論文+世界史+英語で、英語が辞書持ち込み可、だった。俺の武器はといえば現代文と小論文だったわけだけれども、英語が辞書持ち込み可ということで、それはもうほとんど古文と漢文のない国語というか、「答え全部調べればわかるじゃん! なにこれ!」にほかならず、おいしすぎる組み合わせだった。その上、小論文の内容がわれながらふるっていて、歴史認識かなにかの題だったと思うが、元になる文章を完全に論破!とはいかないまでも、がっぷり四つに組んだくらいの実感はあって、字数とか展開とかも笑えるくらいビシッと決まった。
それで、今話題のカンニング事件なのだけれども、やはり辞書持ち込み可の英語の試験を思い出したりもする。するが、さて、なんだろうね。よくわかんないけど、「みんなで考えればわかることは、みんなで協力すりゃいいだろ」とか思わんこともない。辞書に載ってることなら辞書をひけば、Wikipediaで調べられる程度の精度しか求められていない事柄についてはWikipediaに聞けばいい。まあ、辞書に聞いて大学入って落ちこぼれてドロップアウトした人間がいうと、逆の説得力しかないのだが。
むしろ、試験は何を知らなくて、何が知りたいのか聞くべきだ。前者は、それを消去法で調べるのが今のテストということなのかもしれんが、後者はネットを検索しても載ってない、お前だけの問題だ。それに大学なりなんなりが答えられるのかどうかだ。マッチングだ。
じゃあ、「何が知りたいのかわからない」、「何も知りたくない」やつはどうするか? 働くなら働けばいいんじゃないのか。働いたりなんなりしているうちに、仕事の中で自分の関心に気づくかもしれないし、まったく関係ないところに興味を抱くかもしれない。そうなったときに、また大学なら大学に行けばいい。もちろん、働いたままでもいいし、働かないで遊んでいてもいいし、そのまま遊んで死ねるならそれもいい。勝手に生きろ。
……どこに遊んでいきるだけの資金が? あるやつはあるか、おもしろい死に方しろ。と、まあ、絵空事なのだけれども。だけれども、まったく、そのくらいの緩さで学びというものが存在すればいいのに、とは思う。
もっとも、自分についていえば、人間の集団というか、人間に耐えられない感覚が年々強くなってきているし、学び以前の問題としてどこかに通って人の教えを乞うたりしたいとは思わんが。
関連______________________