「自粛」や「考慮」だけでは言葉が足りない

 石原知事は「今ごろ、花見じゃない。同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感が出来てくる」と指摘。さらに「(太平洋)戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」とも語った。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011032900919

 石原知事の発言は言うまでもなくくそったれだが、それでもまだマシという部分がひとつある。どこにあるのかといえば、なぜ「自粛」させたいのか語っているところだ。これが上記のように披露されているので、われわれはそれについて反論も批判もできる。
 そんなことを思ったのが、以下のイベント中止のお知らせだった。

 こうした被災地の状況を考慮し、本年8月13日(土曜日)に開催を予定していた「東京湾大華火祭」は中止することといたしました。区民の皆さまや関係者の皆さまには、何卒その趣旨をご理解賜りたくお願い申し上げます。
平成23年3月22日

http://www.city.chuo.lg.jp/kurasi/komyunitei/hanabi24/index.html

 1週間前、わりと早い段階で公表された、花火大会中止のお知らせだ。これについての記事を探しても、これ以上詳しい話は出てこない。正直なところ、8月の花火大会を現段階で中止するというのには違和感があるというのが第一感。もちろん、準備には長い時間が必要なものではあるにせよ。
 とはいえ、どうも事情がありそうだという意見も見かける。なるほど、いろいろ想像することもできそうだ。たとえば、立地的に液状化による被害がひどいとか、経済活動の悪化から資金が集まりそうにないとか、あるいは、花火工場が被災したとか。それとも、中止を決定した段階で、相当な数の中止要請の市民の声があったのか、あるいは主催者の長が「今ごろ、花見じゃない。同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感が出来てくる」に似た意見を持ったのか。
 ……いずれにせよ、想像の域を出ない。「被災地の状況を考慮し」という一言では、なにもわからない。俺はこれが怖いことだと思う。たとえば、市民からの声だとすれば、それはいったい何人から何件どういう形であったのか、その主旨はなんであるか、それを明らかにしなければいけないはずだ。
 主催者には、説明する義務があると考える。なぜならば、少なからぬ日本人は「自粛」で消し飛ぶようなことを生業として暮らしているからだ。たかが花火かもしれないが、花火師は花火で食っている。花見の名所の近くの土産屋は、花見に大きな売上の割合を占めているかもしれない。いったい、どれだけの人間が、人間生活に欠くべからざるものを生業としているのだろうか。そんなに多くないはずだ。多くの人間が、余剰や余暇、余興のための仕事をしている。たとえば、自動車製造が生活に欠くべからざるものだとしても、あれだけの会社のあれだけのラインナップのどれだけが必要なのか、実用的でない車は必要かと言えば、やはり余剰と言えるだろう。
 それらこの日本の経済活動の大きな部分を、何も明らかにされない、曖昧で簡便、それでいて強力すぎる「自粛」、「考慮」で覆い尽くして、塞いで、窒息死させていいものだろうか。それで戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しかったということになればいいのだろうか。俺はノーと言いたい。
 だから、なにかのイベントや興行の主催者は、中止という決断を下すのならば、その理由をつまびらかにするべきなのだ。中止するなという無理は言わない。ただ、たとえば計画停電が理由ならばそうと、単に集客が悪そうというのならばそうと、スポンサーが足りないならそうと、弱みを明かしてほしい。「自粛」と「考慮」のせいにしないでほしいのだ。
 それに、たとえば、花見の中止が簡易トイレ不足にあるのならば、各人が携帯トイレ持参を呼びかけるであるとか、その場で販売して義捐金にあてるとか、そんな対案が出てきたりするかもしれない。警察官の人手が足りないというのならば、地元の商店が自警団を作ってパトロールや交通整理をするということになるかもしれない。ライトアップの電気に問題があるのならば、日中限定でもいいだろう。むろん、これらは仮定の上に仮定をのっけた絵空事だが、そもそも理由が明らかでなければ、アイディアの出しようもない。
 しかし、最後には人間の心情が残る。これはしかたないといえば仕方ない。「今年は花見をする気分ではない」という個人の気分に対して、「経済活動活性化のためにやるべきだ」と押しつけるのでは、これも「自粛」要請と変わらないかもしれない。生活防衛のために財布の紐が固くなってしまうというのも、俺なんて災害前からカチカチだ。
 とはいえ、その結果、もっと経済状況、社会状況が悪くなるぜっていうことが見えているのだから、はたして政治家であるとか自治体であるとかは、その点について括弧付きでない考慮をしてもらいたい。場を潰してしまっては、選択の余地すらないのだから。
(……と、書いたあとに追記だが、「場」自体が誰かを傷つける暴力になりうることもあるので、なんでもやりゃあいいんだって話でもないのだけれども。ただ、「やり方」の問題にできるものもあるぜって)

関連______________________

 この記事に関して以下のブックマークコメントを書いていた。

場を提供したのが商業施設だろうと、表現活動にコミットした以上、いかなる個人、団体のいかなる主張が自粛という判断に繋がったのかを明示すべきでは。なんか疑心暗鬼の萎縮効果が強まるばかりのような。

 平時のことでもあるはずだ。なにかを取りやめるということは、ときになにかをやるよりも大きな意味を持つという可能性もある。