地震やそれに伴う原発関連について頭がいっぱいかといえばそうでもないが、なにか考えたり、メモしたりしておこうというとその話ばかりになる。やはりそれらに関したものをいろいろ読んだりする機会も多いので、そうなる。
原発関連のリスクあるいは人生について。
そういうことを考えた場合、「放射線被曝・放射能吸収によるリスクをどう評価しどう避けるべきか」というのはまさに個々人の生きざまそのものに依存するものであり、第三者の他人がとやかく言うことはできないとも言えると思います。
http://viking-neurosci.sakura.ne.jp/blog-wp/?p=5565
この被曝による発ガンのリスクは、そもそも癌を発症するリスク25%に比較して、大変少ない。個人的には科学的に無視できるレベルである、と私はいいたい。とはいえ、それを無視するかどうか判断するのは結局あなたでしかない。
……
2011-04-14 - kom’s log
かくなる計上をおこなうためには目下の被曝のリスクは何々パーセントである、と知る必要がある。その上で個々人が自分で判断すべきなのだ。しかしながら、政府はあらかじめ判断済みの結果だけを人々に与えようとする。
畢竟ずるに、「人それぞれ」でしかない。やはりどうもそこに辿り着く。
こちらの記事では、原発事故に大してやや強く恐怖を感じている人たちなどが描かれている。俺はこれについて、次のようにメモをした。
俺みたいな何も無い独身のおっさんと、小さな子を持つ母親との間には、深くて暗い溝があるだろうし、知識の有無というより人生の価値観の違いが際立つ話。マスの情報というより、身近に寄り添うなにかが必要か。
このあたりだ。
そう、同じ日本とかいう揺れやすい地面の上に乗っかってる、俺とあなた、それとも誰か、おまえと大五郎、似ているところも多々あるが、やはり違う。生きている人生が違う、見えている景色が違う。飛んでいる放射線の量は客観的に測定できるものかもしれないが、その影響量を決めるのは俺やあんただし、その結果は違う。
だからこそ、本当に必要な情報はというと、大雑把な「国民」相手に発せられたようなものでは、役に立たないかもしれない。その本当に必要な情報、自分にとって必要な情報が作られるのは、政府公報でも専門家のブログでもなく、自分の脳味噌の中だけだということだ。与えられた、客観的に測定されるレベルでの情報をもとに、てめえで考えろ、そしてその決断に従え。
……が、まずだいたい、客観的とされるデータが本当に客観的で必要十分なのかわからんし、いやいやそんなことよりなにより、放射線量のデータの読み方を知ってるか? MSVとか言われても、「モビルスーツバリエーションですか?」というレベル。ああ、はっきり言っておくが、俺は中学生、いや、小学生の算数や理科のテストを課せられても、ほとんど得点できないだろう。いわんや原子力工学、原子核物理学をや。
<閑話>
今回の件で、文系/理系の対立的な構図で見た場合、理系の人が「文系の人間は真摯に説明しようとすれば難しい言葉で煙に巻こうとしていると言うし、簡略化して説明して問題が起こると騙していたと言う」などという非難があるが、それはどうだろうか。数学や物理という言葉をタイプするだけで前身の毛穴という毛穴から恐怖汁が流れ出す俺に言わせれば、わからんものはわからんのであって、無茶を言うなということだ。俺にはつるかめ算もわからんし、パワー・オブ・テンの視野も持ち合わせていない。わかろうとしないのでもなく、ただわからないのだ。だから、理系の人間は文系の人間をなんらかの保留もないしに「頭の悪い馬鹿」、「物事を理解する経路が欠損している人間」、「因数分解の理解できない人間は生後墮胎にしていい」とか考えていいと思う。以上、高卒無学の人間のリリカルでシニカルでヒステリカルな戯言。ただ、俺くらいの理系知識しかない人間というのは想像以上に多いと思う。米軍情報。
<休題>
というわけで、個々人がどれだけその「本当に必要な情報」みてえなのを、てめえの頭の中で生成できるかというと、もはやそれ自体が難題みたいな塩梅。
まさに、風評おじさんが流言蜚語に乗って世界中を旅したくなるとき。
とはいえ、やはりこの身を動かすのに、朝起きてどこに行くかを決めるのに、あるいは布団の中から出てこないでそのままミイラになるのかを決めるのに、決断を下さざるをえない。情報を作らねばならん。そこで、もう、しょうがないので人頼みにならざるをえない。上のコラムではNHKの水野解説委員だのみみたいなことが書いてあったりするが、そういうとこが必要だ。
それで、俺が何を頼るかといえば、はてなブックマークあたりであると言える。え、マジ? けっこうマジ。まあ、twitterのタイムラインもそうだろうし、もっと広く、インターネットといってもいい。もちろん、画面の向こう側にいるのが犬かもしれないというのがネット。嘘を嘘と見抜けなければ使うのは難しいし、おまえに金を使わせようとするやつは大統領だって敵である。
いや、しかし、だからこそだ。犬なら犬でもいいし、大統領なら大統領でもいい、botだっていい……それが信頼できるやつならば。そう、そこのところの「信頼」というのがなんなのかを言い表すのはなかなかむつかしくやっかいだ。なんというのだろう、まず人間誰しも(あ、犬とかbotはとりあえずおいとく)無謬ということはないし、完全に中立とかいう話もありえない。客観というのも限りがある。思想の左右があるとすればそれも違うし、得意な領域もなにも違う。ただ、俺がその情報を発するやつの癖みたいなものについて知っておればいいということだ。独身の俺と子供が100人いるやつでは見る世界が違う、意見も違うが、そいつに子供が100人いることを知っていれば、そいつの意見に補正をかけられる。むしろそいつとその対象の距離や角度から自分との距離すら測れる。見ているもの、吸っている物質がちがうからこそ見えるものもある。いろんなやつがいて、それぞれがなにかに対してアクティブ・ソナーみたいなの打って、返ってくるのを探知する、その様をさらに外から見ている。たくさんの人間のピン音が水面に波形を作り、それが綾を成して重々帝網を形づくる。宝珠のそれぞれが私たちだといえる。
……というわけで、だいたいしょうもない人間の世界理解というのはこのように人間がどうなのかを見るところに成り立っているし、そんなもの砂上の楼閣に等しいともいえるが、せいぜいそうして生きて行くしかないというのが正直なところであって、はてなブックマークのコメントの一覧性を毀損したあの改悪についてはまだ、はてな社を許していない、絶対に許さないと言い添えて終わる。おしまい。