国立科学博物館へ行く(20世紀の俺とは違うので)


 空と、宇宙と、俺が、科学博物館に、金を払って、入る。人生を振り返る。じつに奇妙な話だ。20世紀の俺には考えられなかった。算数も理科も大嫌いだ。とくに算数のことなど思い出したくもない。それにくわえての理科だ。小学生の理科など、植物の話にしろ、月の満ち欠けにしろ、計算式など出てこないのに、まったく苦手だった。社会と理科、たいしてかわらない筈だ。子供心に「算数と一緒に理系でくくられているだけはある」と無理矢理納得していたのだが、いまだに、算数のついでに理科も苦手だった理由、よくわからない。経済学部が文系なのもよくわからない。

 ただ、21世紀の俺は違う。SFを知ったからだ。SF小説を。まったく、この世の宇宙もすばらしい、科学もすばらしい、人間とかいう生き物もおもしろい。俺には算数もできないし、小学生程度の理科の知識もないが、そのあたりにおもしろい話がある、そう感じられるようになった。あくまで感じの話である。感じ、テイスト、趣味の話をしている。

 血統的に言えばおかしなことではない。祖父は京大学出の理学博士号だ。ただ、その祖父とは同じ住所に住みながら没交渉だった。ほとんど話をしたことがない。人生の話も、戦争の話も、科学の話もだ。戦争、科学。祖父は戦中、松根油で飛行機を飛ばす研究をしていたらしい。一方、糸川英夫は隼や鍾馗
 祖父の名をGoogle検索すると、日本語の論文と英語の論文がPDFで読める。ただ、ほとんどが化学式だかなにかなので、俺にとっては永遠に何を言っているかわからない。しかし、祖父の書き残したなにかをインターネット経由で読めるとは、実に奇妙な話だ。俺は祖父の書いたものなどなにひとつ読んだことはなかった。そして、彼の書き残したものは、その内容が古くなってまったく価値がなくなろうとも、半永久的にアーカイブされるのだろう。たいしたことである。


 やはり古い図案、デザイン、意匠に目が行く。管の構造や、材料の強度についてはあまり興味がない。



 人間のしてきたことには興味があるわけだが。その痕跡の話をしている。



 人間のしてきたことだ。


 まったく、どこまで行こうというのか。


 もし、飛行機の黎明期に、羽根をバタバタさせる飛行機作りについて、あまりにも巨大な天才がいたとしたらどうだろう。その天才のはばたき機の前には、固定翼機の研究などばかばかしく思える。21世紀の今日、空を行くのはオーニソプターばかり……、それが訪れなかったのは、おそらくは必然。そういうものなのだろう。ただ、空想が残される。悪くない。

 九七式司令部偵察機の第一用途「本機ハ主トシテ神速ナル情報ノ蒐集及連絡ニ用フルモノトス」。俺がこれを読んでいる間、同じ部屋のモニタでは小型ソーラー電力セイル実証機IKAROSの話をしていた。どちらかといえば、俺は過去にとらわれる。ケレット式回転翼機がどんなふうに飛んだかが気になる。

 古い機械、ネットワークの先祖。国鉄マルスは1960年代に稼働していた。この写真がマルス101と関係あるかは知らない。

 気づいてみたら、企画展を飛びだしていた。常設展示は半日で回れるほど小さな規模ではない。もう、この話もおしまいだ。俺がなにかをまとめると思うなよ。いや、ひとつ言うならば、子供を科学嫌いにするべきではない。これか先、なにを問うにしても、数学や科学がなくては話にならない。この日もいろいろのガキがいて、いろいろなものに興味を示していたし、ホモ・フローレシエンシスにくっついて離れないガキもいた。そのガキが、将来、フローレス島に行き、裸になって、棍棒を片手に、ホモ・サピエンスに反逆する姿を想像してみよう。科学博物館も悪くない。