信号機のない世界

 問いがわからなければ答えの見つけようもない。しかし、答えを与えられていて、その問いを見つけるという話もある。たぶん。自然科学がそれである。たぶん。ある天体は天文学者が計算しなくてもつつがなく運行する。たぶん(以下、たぶん略)。昨日今日のJRのようにミスで止まりはしない。星が輝くのをやめたとしても、ただそうあるようにそうなるだけだ。この宇宙という答えが現前にあって、問いを探すこと、これである。
 とりあえず、人間の知性がほかの生物とは一線を画すものとする。ほかの生き物は、ただ答えの中にいる。ただそうあるように生きて、死ぬ。あるいは、人間的な知性の尺度からして、答えを見つけるサルもいるだろう。ただ、問いは見つけられない。彼らは問わない。答えの中にいる。ひょっとしたら、人間の飼育下にあって問いを見つけたことを見つけられたゴリラなどいるかもしれないが、とりあえずは調べない。
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 この世に必要悪というものがあるとしたら、信号機がそれである。あれは人間の進みたい方に進ませないようにする。自由を奪うものである。ところが、あれなしでは、おちおち道を歩けない、自転車に乗れない、バスの乗客にだってなれない。必要なのだ、今のところ。
 ところで、自分の考える人間の究極のところは以下のようなものだ。
 大杉栄の言葉だ。

僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけがいやなのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものがいやなんだ。そして、一切そんなものはなしに、みんなが勝手に躍って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。

 鈴木大拙の言葉だ。

人間生活の終末は、すべての人工組織から開放せられて、自らの組織の中に起居する時節でなくてはならぬ。つまりは、客観的制約からぬけ出て、主観的自然法爾の世界に入るときが、人間存在の終末である。それはいつ来るかわからぬ。来ても来なくてもよい。ひたすらその方面へ進むだけでたくさんだ。

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 信号機のない世界を想像してみる。信号機の必要なく、交通が成り立つ世界、支障なく、死傷もない世界を。ジョン・レノンも想像したはずだ。そこでは、すべてが予測と調和によって成り立っている。そうあらねば成り立たない。人間がめいめい勝手に歩き、走り、運転し、それが他者を妨害しない。ただそうあるようにそうなるだけだ。
 そこに自由意思はあるのか。問いはあるのか。蜂の巣のハチ、蟻塚のアリ。ラプラスの悪魔
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 問いのないホモ・サピエンス・サピエンス。生物の範疇である。いずれどうとなるかわからぬにしても、まだ血肉のなまもの。国や社会や企業、いろいろの組織。その出所はそもそもそこにあるのではないか。オオカミの群れ、猿山のサル。人工的に見える国や社会や企業、いろいろの組織。そのand so onの中に家族もある。
 人工的に見える国やいろいろの組織、あるいは信号機がホモ・サピエンスの自然だとしたら。そのようにあるものだとすれば。想像してみる世界は、めいめい勝手に躍っている人間はホモ・サピエンスの人間を超克していなければならない。もはや人間ではないものでなくてはならない。
 与えられていない答えの世界。その前に、問わねばならない。