自殺はやめて! 命の輝きを信じて!

過剰な自殺報道は、表面張力のようにしてやっとのことで生きることにとどまっている人たちに対して、自殺という選択肢を強く植え付けてしまうことがある。もともと精神的に不安定な状態にある人たちにとっての最後の引き金になりかねないということだ。

http://www.asahi.com/national/update/0728/TKY201107280154.html

 表面張力のようにしてやっとのことで生きることにとどまるとはどんなことなのだろうかよくわからない。自殺を否定するような社会が望ましいという方向性から見れば、もうそんな人間がうろうろしている時点で負けだろうというような気もするのだけれども、現実問題として死んだ人間はよほどのことがあっても生きかえらないが、生きることにとどまっている人間が積極的に生きることに復帰するということはあるのだろう。次の日にダンプカーにひかれて死ぬかもしれないにしても。
 後追い自殺をひきおこすから、自殺報道については控えめでおねがいしたいという話らしい。自殺を否定するという価値観を共有するところがのぞましいところであるという前提からいけば、後追い自殺を抑制するのはよいことのように思える。
 しかし、一方で自殺というのは地球よりも重いとかいううわさのある命とかいうものを使いきってしまう、人間最後の一発にちがいないようにも思える。よく通勤電車の時間帯に自殺するな、迷惑だからなどという意見もあるけれども、死ぬ方からしたらおまえらなんて気にしていないか、むしろおまえらに死をみせつけて、ぶっかけるような意図があるんじゃなかろうかなどとも思う。飛び込み自殺した人間と話したことないから知らないが。伊良部秀輝とも話したことはない。
 つまりは、自殺報道が抑制されたところで、自殺というもののあつかいが低くなっていって、それでいいのかどうかよくわからないところがある。人の命が地球の目方とおなじだけ重いかどうかはわからないが、まあ人間ひとりというといろいろの大事だし、それが死んだりするのはけっこうな大事だし、自然死的なものでなければやはり大事なのだろうけれども、それがするするとスルーされて、年間自殺者3万人ですといった統計だけで片づけられてしまうのはどうなのだろうかという気もする。
 3万人ぶんの命だというとずいぶんたいしたもののように思えるし、そのそうとうなものが単に消えさってしまっていいものかという気もする。たとえば、経済的な要因で死を選ぶ人間もすくなからずいるだろうが、なぜ経済的に自分をおいつめて殺そうとするやつを殺しかえさないのかなどと、俺の浅薄な想像力はささやいてくる。
 本当の敵がどこにいるかわからないのかもしれないが、まあ目の前のやつでいいだろうという気もする。取引先のやつだろうと、銀行員だろうと、役所の窓口のやつだろうと。原発事故の影響で電気代を払えぬ農家に送電停止を告げに来た東電の社員などもいたというが、これなどははっきりいって人間の脳味噌の半分もないような機械みたいななにかであって、だいたいにしてそういうものがどうなるべきなのかという発想もあるだろう。自分が機械のようななにかでないと思いたいのならば、人間の脳味噌でなにかを考えて、するべきだろう。
 まあ、こんなことをうそぶく俺が殺されるがわそのものかもしれないし、殺されるかもしれない。あるいはみずからがある境遇におかれてなにができるかというと、なにひとつ自信もないし、確信もない。だいたいにして人間がおいつめられていくというのは、手足がもがれて頭もつかえなくなって、どうにもならなくなっていくものかもしれないし、違うかもしれない。
 とことんに無力であるというのはむなしいことだし、いくらかの力はあっていいように思う。できることならば、どんな人間だっていざとなればヤクザも警察官もまきぞえに一撃でやれるくらいの最強で無敵な感じであればいいのかもしれないが、そういうわけでもないし、そうなったらなったで今の世の中と同じくらい醜く、またべつの生きにくさがでてくるものだろう。首だけになっても仇の片腕を食いちぎって死ぬことをかせられるというのもまったくめんどうな話ではある。
 まあこんな話はこの日記で幾度も幾度も書いてきたことではあるし、いつまで経ってもそのあたりの思いは消えない。今、そのもとをたどれば小学生のころにまでさかのぼることになるだろうか。どこで見たか聞いたかわすれたが、中国でいじめられていた子供が爆弾でいじめっ子ごとふっとんで復讐したという話を知り、ひどく共感したのである。自分だけ死ぬのはばかばかしい、それが正しいと思い、その三つ子だかなんだかの話はすくなくとも三十をこえても魂にありつづけていて、まあ自分で自分を殺そうと追い詰められている人間がなにをどうしようともうそれはしかたないような気がしている。それで俺が木っ端微塵になったとしても、そんなに追い詰めていたことを知らなかったのだからもうしかたないのだろうし、事件や事故で報じられる命というものの相場から考えたら、自殺というのはそのくらいのものであるように思えてならない。