まあ、俺は俺の身体のことが嫌いなのだな

 ダイエット、ダイエットと、ダイエットのことばかり書いている俺はダイエット村の村民かといえばまったくそのとおりであって、ダイエットのことしか考えていないといえる。そして、ダイエットといえば畢竟ずるに己の身体のことを考えるということと同じであろう。
 あらためて俺が俺の身体を考えるに、あまり考えたくないくらいにどうでもいいという気になる。自分の身体のことを考えたくない、という気になる。なにかひどいコンプレックスがあるのか? といえば、身長についてはあるといえる。ただ、ほかになにか機能上の問題があるとか、外見上の問題があるとかいうことはない(まあ、睡眠時無呼吸症候群は顎の作りなので身体上の問題ともいえるが)。障害とみなされるような問題はないということだ。ただ、性能についてうんざりするような気持ちになる。
 俺がこの身体を使い始めたのは偶然にも俺が生まれたのと同じ年からなのだけれども、どうにも無力感が刻み込まれている。今でも思い出すのは、小学校低学年のころの体育の授業だ。サッカーボールを浮かせて蹴りましょうという課題だった。浮かせて蹴った人間からあがっていい、と、自由に遊んでいいだったかなにか、まあそういう課題だった。嫌な予感がしていたが、案の定俺は最後のひとりになって、半べそをかきながらボールを蹴り続けたが、ついにサッカーボールを浮かすことはできなかった。完全に無能の落ちこぼれで、そんな屈辱をうけなければならない自分が心底嫌になった。1クラスの人間というとそれなりに多くいるのだが、自分が最低だった。
 それ以来、だろうか。それ以前かもしれない。幼稚園のころからだろうか。ともかく自分は体が小さく、ひどく劣る存在だった。たんに走ったりなにかするというのでも遅く、またなにか工作のようなものでも劣っていた。劣っていることだけはいやに明確に認識していて、だいたいひどい気持ちになってよく泣いてばかりいた。
 今考えてみれば、結局のところずっとクラスの背の順で一番前だったような低身長の人間が、さらに2月の終わりの生まれで、へたすれば1年近く差のある連中と同じことをやらされていたのだから、差が出てもいたしかないところだろう。ただ、その当時それには気付かなかった。気づいてもよさそうなものだが、早生まれが体育の授業で不利なのに気づくことはなかったし、誰にも指摘されなかった。気づいたのはつい最近だ。

 だからといってタイムマシンもないので、「おまえが出来損ないなのは早生まれも原因だ。一つ下の学年に行けばケツから1/5くらいになれたかもしれない」と励ますこともできない。まったく。

 まあ、まったくこんな話は前にも書いたし、おそらく死ぬまで引きずる劣等感だと思っている。もう、ひどくうんざりしていてあえて言葉にする必要など無いのだろうが、しかしこういう人間がいるという悲惨が現実をぶち込むことによって、これから生まれるすべての早生まれのチビにほんのわずかでも配慮されるようになればいいような気もする。それとももう、高収入で高学歴で高身長の人間以外は子作りする階級に存在していないのかもしれないので、無駄な話かもしれないが。
 しかしまあ、ともかく過去がどうであれ現在その身体を引きつづき使わざるをえず、今この瞬間に息を吸って吐いたりもしているわけなのだけれども。まあ、ただ完全に絶望しているわけでもないのは、ともかく痩せることによっていくらかの身軽さを取り戻し、さらにいくらかの筋肉をつけたいなどという大それた夢すら見ているということだ。いくらかの筋肉、それはすばらしい。肉体労働者にはなれないかもしれないが、軽作業的ななにかという職にありつけるかもしれない。それは俺にとって計り知れないくらい悪くない話なのだ。もしかしたら人生の幅が広がるということだ。ひょっとしたら、福島の原発で床掃除をするような仕事とかにつけるかもしれない。まったくいいぞ。
 よし、俺がいくらか身体を鍛える理由があるとすれば、それだ。それしかない。そのために身体を動かし、プロテインを飲む。まあ、自転車やカメラのようにすっかり飽きてしまう可能性もあるのだけれど。