勝手に予防ごっこしてろ 川西千秋『自殺予防学』を読む

 

自殺予防学 (新潮選書)

自殺予防学 (新潮選書)

 

なんだよ、自死をすすめるような本(

※著者は実行しました 須原一秀『自死という生き方』を読む - 関内関外日記)につづいて「自殺予防」かよ、というところもあるが、予防するというところに希望があるかもしれないのである。単に本棚の近くにあったからという理由があるかもしれないのである。

して、著者はこうのたまう。

自殺に至る人は精神的に追い詰められており、正常な心理状態にはない。一般にいわれるような、「冷静な自殺」などというものはほとんどないのである。「人には自殺する権利もある」という人もいるが、権利云々は当事者がきちんと判断できる状態にあるのを前提に初めて議論できることであり、自殺に関して、「死ぬ権利」の議論は成り立たないことは強調しておきたい。

 まあ、おれは張さんの死後剖検の本も読んでいるし、自殺者が精神疾患にあった確率の高さは知っているつもりだ(本書にも出てくるが)。

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それでもなお、著者の言うところの「自殺に傾く人」は単なる脳の病人であり、視野が狭くなっており、まともな思考ができないのである、という切断には、どうも首肯しかねるのである。人間の愚行権。そもそも人間が愚かであるということ。あなたはとても賢く理性的で有り続け、それゆえに生きる権利を有するのかもしれないが、そうでない人間だっているということ、おれはそれを血反吐を吐きながらでも言いたいのである。

自殺対策は、国や地域としてのあり方の契機になり得ると、私は思っている。人と人とのつながりを大切にする社会、困窮した人が容易に支援のための窓口や援助組織にアクセスできる社会、、経済弱者がセーフティ・ネットでしっり受け止められる社会、再チャレンジができりう社会、必要な医療が適切に提供される社会、健康づくりが行き届いた社会、、ゆとりをもって子どもを育てられる社会、いつでも再教育を受けられる社会、そして、一部の人たちが骨身を削らなくても、自殺予防活動が浸透していくような社会である。

 どこぞの政党が選挙前につらつら並べ立てそうな絵空事だ。人は病む、飯を食う金も無くなる、行政は窓口で追い払う。それが現実だし、結局のところ、もうこの国にはその現実しかあり得ない。金が無いのだ。急に石油が溢れ出てきたりすれば、すばらしい社会が出来上がるかもしれないし、自殺者ゼロなんてことも言えるかもいしれないが、この国はもう人口オーナスに入っていて、富める者は富む、貧しい者は死を選ぶ、それしかない。医者なんていう恵まれた知性と身分にある人間にはそれが見えていない。そんんな人間がキチガイを憐れんでみせる。ナイスなポーズだ。自撮りしてインスタグラムにでも載せておけ。

とはいえ、十年くらい前に書かれた本書で、自殺四万人を危惧していたところ、今のところ三万人を下回っているらしい。この本で賞賛されている自殺対策がうまくいったのか、単に失業率と自殺との相関関係なのかわからん。わからんが、お望みどおり減っているならいいじゃないか。

それにしたって、メディアが報じることによって後追い自殺が増えることを防止することと、自殺についてすべての人びとが深く考えることべきだという主張に矛盾はないのか。そんなふうにも思えてしまう。あまりに当事者すぎて見えていないのかもしれない、などとも思う。悲惨な生活、病苦、貧困、おれが一人称で死ぬ理由はいっぱいあって、救いなどありはしない。とはいえ、「自殺予防学」が行き渡り、自死する人間が減るというのならばそれもいいだろう。人間は頭数、でも、生きていたってそんな人間が経済的に国に寄与することも、周囲の人間によい効果を与えることもないんじゃないのかね、と言いたくなる。無論、双極性障害によって狭くなったおれの視野、思考がもたらす妄言なんだろうがね。