※著者は実行しました 須原一秀『自死という生き方』を読む

 

自死という生き方 (双葉新書)

自死という生き方 (双葉新書)

 

 「もともと明るくて陽気な人間が、非常にサバサバした気持ちで、平常心のまま、暗さの影もなく異常性もなく、つまり人生を肯定したまま、しかも非常にわかりやすい理由によって、決行される自死行為がある」ということを今から立証しようとしているのである。

この「立証」は著者自身の「決行」が含まれている。それを含んでの一冊である。そして、その「決行」がなければ、あまりたいした本ではないのかもしれない、などとも思ってしまう。おれには昔から、自殺なら自殺、テロルならテロルで、やってしまった人間にはかなわない、というところがある。著者はやってしまったから、すげえのだ。

その著者が、上みたいなので死んだ人間として挙げているのが、ソクラテス三島由紀夫伊丹十三である。ソクラテスの死について「自殺じゃないのか」といったクセノポンは、それ以後「凡庸なクセノポン」と記される運命(いやな運命だな)になったが、そのクセノポンの言うとおりじゃないのか。澁澤龍彦が言うように、三島は肉体が不治の病(老い)を自覚したからこそ腹を切ったんじゃないのか。「楽しいうちに死にたい」と書いた伊丹十三はそうしただけではなかったのか。そんなところである。彼らの自殺についてそんなに深入りすんなよ、アクロバットな考え方すんなよ、というのだ。

ところで、楯の会の制服はピエール・カルダンじゃないって知ってた?

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……とか紹介する前に、おれが本書を、浅羽通明による解説も、著者の長男のあとがきも読んだ上で感じたことを書いておこう。「ちょっとこの著者、躁鬱病気味なんじゃねえの」と。もちろんおれは医者ではない。医者ではないが躁鬱病=双極性障害の当事者である。そして、明るく楽しい希死念慮の持ち主である。そのおれが、そう思うのだ。「なにかこの人は、軽い躁状態の中で死んでいったのではないか」と。これは著者にとって甚だ不愉快な解釈に違いない。墓の下から出てくる可能性すらある。でも、なーんか、やけに明るすぎて、躁なんじゃないのって思いが消えないのだ。

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なんか、こんな疾走感。この著者も運動は欠かしたことはないし、死ぬ直前もジムに通い、腹筋が六つに割れて体脂肪率が9%になったと家族に語ったりしている。なにかこう、生きて、醜態を晒し、体脂肪率も11%から相当に増えてしまったおれが言うのもなんだけれども、このときの心境に、似ているような気がしてならないのだ。あらためて言うが、そういう推測というか邪推は著者の望むところでも、訴えるところでもない。だが、一人称のおれが言うには「わかるなぁ。でも、おれがわかるってことはなぁ」と思ってしまうのである。

閑話休題。いや、おれが言いたかったことを先に書いてしまったか。まあどちらでもいい。

たとえば、著者は何個か「極み」を知っていれば、もうそれでいい、という。「極み」といってもある分野の頂点であるとか、究極の護身であるとか、そういうもんではなく、なんらかの楽しみ、自分なりの「足るを知る」を知ってればいいじゃないか、ということだ。おれ自身についていえば、もう死ぬまでに死ぬほどしたいことは残っていないし、いくらかいいことはあったからもういいや、という心持ちで生きている。おれは極めているんだぜ、知ってたか? たとえば、「死ぬ前に一度フルカーボンのロードバイクに乗ってみたい」と思って、自転車友だちなど一人も居ないので、ほとんどない貯金でイギリスから個人輸入円高だったので)したりして、それにちょっぴり乗ったりしただけで、それでもそれはおれの「極み」のひとつなんだよ。

それで、著者はキューブラー・ロスに対抗してかどうか、死の「能動的積極的受容の五段階説」というのを唱えていて、その一つ目にこんなことを書いている。

1 「人生の全体の高」と「自分自身の高」についてのおおおよその納得

 a 楽しいこと、うれしいこと、感激すること、苦しいこと、悲しいこと、などの経験を通して、結局「人間が生まれて成長し、良いことも悪いこともあって、老化して、死んでゆく」という人生全体についてのおおよそを体で納得していること

 b 自分にできることの範囲をおおよその見当と、自分のして来たこと全体のおおよその見通しを体で納得していること

 人生全体の「高」と自分自身の「高」。この「高」というのは高をくくるの「高」であり、スク水揚げの漁獲高の「高」であろう。これがおれにはわかる。一人称のおれはそう言う。おれはこれこれこのていどの人間であって、なしてきたことはせいぜいおれに見合ったていどのことであって、それ以上を求めたところで仕方もないし、今後もそれ以上は見込めないだろう、という確信だ。まあ、確信だと言いすぎかもしれないが、そうだな、あ、「おおよその納得」って書いてある。それだ、それ。おれはもう「おおよその納得」をしている。こういうところに納得できる。

それにもう耐えられないな、というラインも見えている。一人称のラインだ。たとえば、だれかが日頃食べている米がブランド米から標準米に変わっただけで死のうと思って実行したら、おれは笑うかもしれないが、嗤いはしない。人それぞれに基準はある。

だからこう、老いとか病の苦しみの中にあって、あるいは貧困の底に落ちて、ひどい苦しみや餓えの中で死んでいくことは、なんというか間尺に合わんと思えてならない。「ついにゆく 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりしを」(在原業平)の昨日今日を自分でセットしたっていいじゃんってことだ。自決のすすめを虚無主義的だというが、だったらひどい苦しみでもなんでも諦めて受け入れて思考停止するほうが虚無主義的じゃねえの、というわけだ。ふむ。

終末期医療……については、おれにはわからんな。おれには無縁だ。無縁仏だ。そんなもの受けるだけの金がない。とくに治療されることもなく、死んだら救急車が死体を寿町に運んできて、ゴロンと転がすだけだろう。まあ、治療されすぎて、苦しい延命治療を受けるのも、治療されないで苦しむのも同じことだ。

それでもって、著者は来年の3月に死のう、と決めて、この本を書くわけだ。臓器提供はどうしよう。どうせだったら全部持ってけ、と全部に○をつけたりするわけだ。このあたり、おれがブレインバンクに死後脳を提供したろうと思うのと一緒だ。また一緒だ。

そして、この著者はきちんと自決する。どっかの神社で首を吊った上に頸動脈をざっくりやっていたという。ライフハックだ。家族にも事前に知らせていなかったようだ。見事なものである。おれもかくありたいものだ。

とはいえ、おれと著者との違いといえば、おれは双極性障害という病、貧困の恐怖からの逃亡で死ぬつもりであって、それはどこまで能動的といえるのかどうか、というあたりであろう。でも、死を前にしてそんな些細な違いがなんだろうか。著者は65歳で死ぬということを30代後半から決めていたらしいが、おれの場合それが20~25年早いだけだ。

それだけこの世は生き苦しくなっている、かどうか。というか、著者はどっかの大学の講師で、どのくらいの稼ぎがあったのか、安定があったのか知らぬが、妻も子もいるのだから、経済的にはおれよりは恵まれていたことだろう。うまくいけば(下手すれば)、終末期まで医療を受けられる身分だったのかもしれない。おれはそんな安定やそういった充足、医療を受けられる可能性とは無縁だ。だったら死狂いだ、秘剣流れ星だ。それしかない。おれが死んだらオリオンの三ツ星のどれかになろう。え、一つなくなっちゃうの? いつ? (←ベテルギウスは三ツ星じゃありません)

最後に著者の息子のあとがきから。

ちなみに後に出てきた家族あての遺書には、「野菜を食べ、運動しろ」と書いてあり笑ってしまいました。

瞑想が足りないものの末路はどういうものか。楽しく自死するのもいいじゃないかね。