死ぬべきものが死んでいく時代

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自殺者の数が減っているという話だが、それまでは死ぬほどでもない人間が死んでしまっていただけであって、これからは本当に死ぬべきものが死んでいく時代になるのだろうと思う。たとえばおれのような。

おれのような。おれのような、中途半端に精神障害を抱え、これといった金になる才覚もなく、それでも大暴れして警察に身柄を拘束されるようなこともなく、病院に強制入院させられることもないていどの、それでも生きていくには苦しすぎる人間が、死すべくして、死す。

死すべくして、死す人間。死ぬだけの活力があり、なおかつ生きていくための気力もない。能力もない。気力も能力もない人間を支える家族もコミュニティもない。中途半端なやつにこの激しい弱肉強食の世界を生きるすべはないし、わずかな福祉にすがるすべもない。門前払いは確定的だ。

病気に逃げるほどおれの病気は深刻ではない。それで、一度失敗して、なおかつ頼れるところなんてありはしない。5、6年安静にできる場所なんて想像の埒外だ。明日にも、そう明日にも待っているのは自死か路上か刑務所か。すべては自分の中途半端な不出来にある。おれが全て悪い。

このような不出来な人間が削除されて、出来のいい人間の子や孫があふれる日本社会というものには夢や希望もあるだろう。人間は増えすぎた。無用な人間が増えすぎた。一時的な経済的不安はあるだろうが、生き残るべき人間が生き残り、その人間の子供たちが国を背負って立つならば、日本は安泰である。

べつにおれは日本のために生きているわけじゃない。人類のために生きているわけじゃない。でも、安泰とそうでないのでは、安泰のほうがいいように思う。かすかに残った良心がそう告げる。そしておれは自裁するだろう。路上も刑務所もいやだ。命の存続というものに苦痛を感じながら寄与するのもごめんだ。ああ、だから、簡単に死ねる方法を、安らかに死ねる方法を、探すだけ。できるだけ、生きるべき皆様に御迷惑はおかけしません。しないつもりでございます。それとも、だれかをぶっ殺して刑務所に行くのいいのであれば、その「だれか」を教えてもらえないでしょうか。もっとも、和田久太郎のように失敗するのが目に見えていますけれど。