優生思想、ビッグダディ、動けない私


 また今朝も動けませんでした。頭は脳の中に鉛のかたまりがつまっているようで、そこから発せられる薄弱な命令に対して、首から下がほとんど反応してくれません。二度目のことなのでおどろきはしませんでしたが、だからといっていかんともしがたいことに変わりありません。とりあえず、なんとか指先だけ動かして会社にメールを打ち、一眠りすることにしました。
 30分くらいたち、ふたたび頭は目覚めました。しかし、体のほうがまったく木偶のようで動きません。いや、まったく金縛りのように動かないわけではないのです。非常にゆっくりと動きます。ただ、頭の中でいくら起き上がってベッドからおり、水を飲むなりトイレに行くなりといった必要な行動を思い浮かべようとも、言うことを聞かないのです。結局、なにか陸ガメのできそこないのような動きをじんわりと続け、ヨガの失敗作のような体勢で午前中が過ぎて行きました。昼過ぎ、ようやく起き上がり、脳に作用するお薬を飲むことができましたので、トイレにも行けましたし、お餅を焼いて食べることもできましたし、午後には出社してイライラと薄ぼんやりのアマルガムとなってモニタに向かってなにかしておりました。
 今考えてみますと、仕事上の大事な局面で急に寝こんで部屋から出てこなかった父親も、このようなものだったのかもしれません。強烈な形で、半ばコントロール不能な形で出社拒否が現れていたのかもしれません。また、不明熱などで社会的ひきこもり状態にある弟も似たようなものかもしれません。私などは彼らに比べるとまだ動けるほうで、引きこもりを脱さざるを得なくなった以降、まあこの日記の書き始めくらいからでしょうか、なんとか精神をコントロールしてきたつもりだったのですが、もういいかげんすりつぶされすぎてしまったようです。母はいろいろの負担をすべて引き受けた上でさらにワーカホリックに走っている強靭な人間なのですが、そのうち首を吊るか過労死するでしょう。

 そもそも、と、いくらそもそもの話をしても詮なきことなのですが、書けることはなんでも書いておきたいという気なので書きますが、そもそも父は家庭を作るだけの人間ではなかったのでしょう。アルコール依存のようになって、パーキンソン病の祖父がたしなめに来たことがありますが、父は半狂乱というか狂乱状態で、老祖父母に向かって「産んでくれと頼んだおぼえはない!」と中学2年生のようなことを叫びながらガラスコップを投げつけたものでした。それをしらけた目で見ながら、「それは俺のセリフだろう」と思ったものでした。
 聞くところによると、私の父の父というのは京大卒の化学博士だったのですが、子育てのような面ではまったく厳格なだけで、ろくにコミュニケーションを取るようなこともなかったそうです。祖母に関しては、やはり旧華族とまではいかないが、お嬢様育ちであって世間離れしたところがあります。どちらかというと片腎で知的障害のある父の双子の弟の世話に手一杯で、父は中学のころから親元を離れてしまったそうです。まあ、なんら断定はできないのですが、なにかしらどういう人格というか、人格障害が生まれてきたのかわかるような気もします。
 さて、そんな父は見合いで結婚をしたのですね。今、これを書いていて気づいたのですが、このあたりがやや奇異な気がします。一流と言われる大学を出たサラリーマンであったわけですが、どちらかというとサブカル系な出版業界にいたわけです。銀行員かなにかというなら、見合い結婚というのもあるのでしょうが(母は高卒銀行勤めでしたが)、どうもそういう雰囲気のところにいたようではなかったはずです。
 それなのに、周りからの結婚しろという重圧があったのでしょうか。いや、大の大人は結婚するのが当たり前、という空気だったのでしょうか。そのあたりがピンと来ない。なぜ、父は結婚なんてしようとしたのだろうか。そういえば、現在の非婚化の流れ、見合い結婚の減少とぴったり重なるなんていう話もありましたか。

 もちろん、依存する相手を求めていた可能性もありますし、そのあたりのことはわかりません。そういえば、聞いたこともありませんでした。
 ただ、母は「幾人かの見合い相手の中で一番頭が良くて、話ができる人間だと思って結婚した」と言っていましたっけ。それはよくわかります。父は頭の回転も速いし、知識も膨大で、話は面白い。社会や政治、歴史、文化、スポーツ、文学、そんなどうでもいいといえばどうでもいいような世間話をするぶんには悪く無いどころか、かなり面白い人間です。ただ、人生の時を一緒に過ごす人間としては、家族とする人間としては、最悪に近い人選です。私が人の人生にアドバイスするなんて噴飯ものですが、ロースペックでも安定重視で相手を選んだほうがよろしいと言いたい。そのピーキーさが財を成す仕事になるレベルでない限りは。ま、これは見合い的な結婚の話であって、自由に恋愛できる人であれば、好きに結婚すればよろしい。

 さて、私がこんなことを考えたりしたのは、録画しつつさらに2chの実況板を片手にぜんぜん痛快でもビッグでもない『痛快!ビッグダディ』を見ながらでした。そしてさらに以下のようなことまで考えたのでした。
 あまりビッグダディと関係ない「父は自分が家庭を作るべき人間でないことに気づいていたのか、いなかったのか」ということです。彼の本棚には心理学や精神病理の本もたくさんあったものですが、どこまで自分を客観視していたのか、ということです。結婚前にうすうす気づいていたのか、そうでなかったのか。あるいは、子供を二人も作ってしまったあと気づいたのか。あるいは、まったく自己認識を欠いた完全無欠の人格障害なのか。まあよくわかりません。
 ただ、たとえば、自分についていえば、できる、できないはともかく、子供を作っては絶対にいけないという確信があります。ああ、自分で書いていて、これが差別的な優生思想に直結するというか、そのものであるという自覚はあります。ただ、できる限り小さな主語で語るのでお許しいただきたい。まあ、ともかく、どういった病理のどこまでが遺伝性のものかというのは、現在進行形で解明が進められていることと思います。
 ただ、理科の落ちこぼれが考えることなのですが、体の大きさですとか、そういった身体について遺伝がある以上、その身体が作りだすものが似てくるというのは十分にありえるのではないでしょうか。たとえば、自分は太り気味でもないのに睡眠時無呼吸症候群なのは、顎の小ささであるとか、喉の形状であるとか、そういった面から来ています。同じように、単なる器官としての脳の形状の微細な部分、神経細胞のなにかによって、結果的に脳内伝達物質のやりとりに支障を生じやすいなんていうことはあるのではないでしょうか。
 そして、そういった特性を持った人間は、やはり医学上で分類できるように似たような性格になっていくのでしょうし、そういった人間が家庭を作ればどのようになるのか、やはり似てくるところはあるんじゃないでしょうか。
 まあ、この類推の正否など知らないし、べつにどうだっていいのですけれども。ただ、児童虐待が連鎖するなどという話しもよく耳にしますし(たとえばこの東京都の実態調査では"「虐待者の世代間連鎖」など生育歴による虐待要因に強い関連性はみられず"とか言ってて、データとしてはっきりそうなのかどうなのかわかりませんが)、なんというか、自分が子供を持つことについて否定感を持つ人というのは、増えているんじゃないでしょうか。遺伝のことであるとか、そういった知識が広がるにつれ(その内容の正しさがあやしいものだとしても)……。
 いや、主語が大きくなってきたというか、そんなのは調査しなきゃいかんのだろうし、だいたい、そういったことに興味を払う層がどれだけの数あるというのか。でもまあ、ビッグダディを見ながら、自分についてそんな風に思ってしまうのです。そもそも結婚できるような器量(容姿、身長、収入)などないのですが、それは置いておくとして。つーか、だれかと暮らすのは金輪際ごめんなんだけど。
 しかしまあ、考えてみますと、少なくとも自分のような人間は自由恋愛・自由結婚社会ではまったく蚊帳の外ですし、かつては「結婚しなくてはならない」という空気なり圧力の中で結婚してきた、結婚させられてきた、あまり幸福な人生を送れない類の人間というのも結婚しなく、できなくなっていくわけですし、わりあい未来は明るいんじゃないでしょうか。なんというか、ビッグダディなど、悲惨なところは多々あれども、私や私の血族のような弱さがないようですし、当人はわりとほんとうに痛快に生きているようです。その子供たちも、あの環境といってはなんですけれども、みないい子ばかりに見えます。なんというか、生きる力のようなものが感じられるのです。まあ、演出済みのテレビ越しの、勝手な感想ですけれども、ともかく、そういう人間が遺伝子を残していく割合が高くなるわけです。

 この社会に対して生きづらさを感じない人間が増えていく、結構なことですよ。自壊するような人間をわざわざ作って、不幸や憎悪を増大させ、ときに撒き散らすことになんの意義があるのか。勝ち組と痛快な人間は大いに子を残しなさい。まあ、社会は変化していくものですし、さまざまなタイプの遺伝子もリスクヘッジのために残しておくというのが生存戦略というものでしょう。また、よりよくなるようにとの交配を長く長く続けてきたサラブレッドのベスト・トゥ・ベストが凡馬だったり、全兄弟がまったく走らないなんてのは日常茶飯事であって、どこまでが血統由来のものかという話も当然あるわけですが。というか、ただ競走能力を求められるサラブレッドや肉質のよさを求められる肉牛と、有用性のみで測られるべきではない人間について同列には語れませんか。しかし、数十年という単位でこの社会の価値観がさまがわりするとはとても思えないのです。とりあえず、社会をスイスイ乗り越えていく人間や、執拗な恐怖や自己否定感のない人間ばかりになったほうがいい。
 と、なんというか、そもそも自分一人、朝ベッドから出ることのできないような欠陥人間が、社会や人類の明日についてなにを語れるかというと大笑いなのですが、まったく笑っている余裕もないわけで、また、今読み返しても、どう見ても優生思想的で差別的すぎる内容で暗澹としますが(たとえば、これとか読んでください→X‰ª³”Žu¶–½‚Æ—D¶Žv‘zviLife Studies Homepagej)、しょせんはキチガイの戯言としてぶち込んでおきます。少なくとも、自分は今、目下のところの精神状態下において、自分についてこう判断していると、それだけの話と思ってください。ご海容を。おしまい。