■今日のわたしは機嫌がいい。それはあんたとは関係ない、まったく関係ない、新しい服を着ているからでもないし、新しいTIMBUK2のメッセンジャーバッグを背負ってるからでもない。会社の金銭トラブルが一段落したのと、自転車事故の一件がすんなりと決着したのと、増量してもらった薬がよく効いているから。
■感受性、とかいうものが日に日に減衰している。もしそんなものが、わたしにあるとするならば。夢見る力の終わり。もしそんなものが、わたしにあるとするならば。
■まあ、薬を飲んでいることで、意図的に終わらしているのだけれども。少し前にはてなブックマーク経由でこんな記事を読んだ。掃いて捨てるほどあるライフハック記事。だが、なにかしらの的確さがある。すなわち、こういった内容をプリントアウトしてメンタルヘルスの病院に行ってお薬もらっているわたしに当てはまりすぎている。
■わたしを校正する7大要素は、色とりどりの金平糖、壊れたゼンマイ、古ぼけた戦闘機の模型、赤いクレヨン、公園で拾ったビー玉、7色に反射する貝殻、氷砂糖のルミネッセンス光あたりだと思われているかもしれないが、実のところこの記事にある7つといっていい。この7大要素を自分から取りはらってしまったら、あとは何が残るのだろうか想像がつかないほどだ。
■しかし、それは精神病理としてわたしを蝕む(たぶん適切ではないと思うが、わたしはわたしの病理を「不安神経症」と呼ぶのが言葉としていちばんしっくりくる)ので、闇に伸びる伸びる想像の根を切り詰めなくてはならない。その結果、湧き出てくるなにかも同時に失われている。もしそんなものが、わたしにあるとするならば。
■「今の処方ではドキドキがおさまらない。恋ではない」。「じゃあこんな薬を試す手もある」。そういって医師が取り出したパンフレットは統合失調症におもに使われる薬であった。これで一気に好転する例もあるという。なるほど、わたしには幻聴も幻覚もないが(おそらく)、漠然とした不安とてそれらの仲間に入れてしまってもいいかもしれない(つげ義春の漫画で見た人かもしれない)。ただ、具体的な不安がないわけでもないし、医師にも薬にもそれを消し去る魔法はない。「とりあえず量の方でおねがいします」。
■医師がわたしにSSRIないしSNRIを処方しないのは、元気になったわたしが金槌かなにかをもってどこかのマザーファッカーの頭をぶん殴りに出かけたり、自分の頭をぶん殴ったりするんじゃないかというリスクからだ。わたしにはどこかに出かけていくやる気も元気もあれもないが、そこらへんのドヤのおっさんと殴り合いなったとき、たまたま金槌が近くあればそれを使うであろうという用意はある。
■夏の暑さというものも感じない。夏という感じもしない。えらくフラットなものだ。iTunesでサマージャム'12なんてプレイリストを作ってみても75曲になってしまって漠然としている。それでも、あの曲やこの曲が見あたらない。自分ではずいぶんCDをリッピングしてきたつもりだが3828曲ではぜんぜん足りていない。ただ、あれもこれも全てリッピングしたところで、おそらくは6000曲くらいだろうか。一回の人生にとって十分な量だろうか、違うだろうか。よくわからない。レコードなんてできる前の人にとって、人生に何曲の音楽があったのだろう。少なくとも、アルバムリミックスは含まれていなかったに違いない。
■まあ、したところで聴く暇もない。わたしが音楽を聴くのは雨の日の徒歩での通勤のときくらいだからだ。本を読むときも邪魔になる。
■今、私はロンドン塔最後の幽閉者ではない方のルドルフ・ヘス(すなわちアウシュビッツの管理者の方)の自伝と、フィンランド空軍のエースであるエイノ・イルマリ・ユーティライネンの自伝と、高橋和巳の『日本の悪霊』と、セリーヌの『夜の果てへの旅』を同時に読み進めている。Bf109でロンドンに飛び去ってアドルフ・ガーランドに無茶な命令が下る原因を作っていない方のルドルフ・ヘスが起こしたスパイ粛清事件の舞台は、まるでドストエフスキーの『悪霊』のワンシーンのようだ。セリーヌについてはカート・ヴォネガットが『パームサンデー』で書いていたので思いだしたが、考えてみればチャールズ・ブコウスキー好きとしてはもっと早く手に取っていてもよかった。ジョン・ファンテの『塵に訊け!』は読んだ。イッルの話はルーッカネンと『北欧空戦史』のおかげで読み進めやすい。『日本の悪霊』は『ブラック・ダリア』より前、ホプキンズシリーズのエルロイのようだ。この中では『夜の果てへの旅』が読み進めるのに難儀で、長すぎて読めない結果になりそうに思う。
■まあ、そんなところだ。
■そんなところなんだよ、あんた。
■あんた、だれだ?