セリーヌ『夜の果てへの旅』を読んだ

おれはもう限りなく自由で身軽な人間になった。むろん精神的な意味で。人生で窮地を切り抜けるのにいちばん必要なのはたぶん恐怖心だ。おれはと言やあこのおれはその日からってもの、それ以外の武器が、それ以外の力が欲しいと思ったことはない。

 おれはといえば今すこしビビってて、これを読む数十人の読者に対して、セリーヌの『夜の果てへの旅』がどんだけすげえのか、うまく説明しなきゃいけねえみたいな、そんな気分になってる。おれが勝手にやってることだし、やりたいとすら思ってることだってのに、なんかの舞台に立ってシドロモドロになってるってわけだ。

人間の憎しみってやつ、なんの危険も伴わないとなると簡単に確信に早変わりだ。理由なんぞ後からひとりでにやってくる。

 まったくバカバカしいとは思っちゃいるけど、そんだけおれはこの『世の果てへの旅』にやられちまったってことなんだ。まったく、そんな予感はあって、おれの大好きなブコウスキーの『パルプ』なんてセリーヌを探す話なんだぜ。おれはセリーヌを読んだことがなかったから、『パルプ』は読んでないことになってんだけど。で、ブコウスキーといやあ、ジョン・ファンテかセリーヌかで、ジョン・ファンテの方はもう読んだんだけど、セリーヌはなんか忘れててさ。
 それでこないだヴォネガット読んでたら、セリーヌについて触れてて、医師ルイ=フェルディナン・デトゥシュの「ゼンメルヴァイスの生涯と業績」をすげえ評価していて、それで、反ユダヤ主義者としてのセリーヌと云々かんぬん。まあ、おれはそのあたりはまだ知らないからなんとも言えないし、ともかくそれでなんかわかんないけど、「ああそうだ、『夜の果てへの旅』読まなきゃはじまらねえんだ」って気になったんだった。

そいつは悲しい傷口みたいだ道ってやつは、いつ果てるとも知らず、その底にはおれたちが、おれたち人間が端から端まで、次から次へと苦しみを求めて、決して見えないその果てに、世界中の道という道の果てに向かって歩いてくんだ。

 で、おれときたら、『夜の果てへの旅』がいったいぜんたいどんな話なのかさっぱり予備知識なしで、ただなんか最初は文章のリズムに乗れなくてさ、分厚くて読めるのかよみたいに思ってたけど、いったん乗り始めたらおもしろくてやめられねえって。それで、クソと血にまみれた戦場から、虫と疫病まみれのアフリカ、そして街がおっ立ってるアメリカと、ヴォヤージュしってんだけどさ。

人間てのは生まれつき驚くほど軽薄な生きもので、娯楽よりほかにほんとうに死を回避できるものはなにもない。

 それでもさ、なんかおれはこれ読みながら、おれの知ってると、少なくともおれは思ってる世界だって思って、なにか驚嘆するとか、びっくりするとか、そんなんないわけ。こんな破廉恥なこと、乱暴なこと、暴力の言葉! って、そんな風に驚いたりしねえの。いや、おれはこの安全で清潔な20世紀末から21世紀初頭の日本とかいう国から一歩も出たことねえし、戦場もアフリカも知らねえ、マンハッタンも知らねえよ。でも、こいつは、これを垂れ流してる脳みそについて、こいつと似たような連中が似たように垂れ流したことについていくらか知っていて、もうそうなると、そんなのは時代も場所も関係なくなって、ただ、人間とかいういきもののラーメンの獣臭さがむき出しになってて、その上で、なんかわりと多数の人間がどうでもいいと思ってることについて、なにか幼稚な、根っこところから離れられないでいるんだ。

金のない人間の一生は長い妄想の中の長い失意にすぎず、人は何かを知ろうにも何かから解放されようにも、そいつを所有してなきゃ適わないことなんだ。

 生まれた時代も場所も身分もなんもかんも違っても、おれにわかる言葉でって、日本語に訳されてりゃだけどさ、そんなこと垂れ流してくれるやつがいて、そいつはまったく悪くない気にさせてくれる。それはもう、おれの勘違いでもなんでもいいんだよ。でも、ああこれだ、これなんだよって、そうなんだよって、決して明るくなったり、あのやる気とかいうもんが分泌されたり決してしねえけど、這いつくばってクソみたいに生きてる中にあって、うっうー、うまく言えねえけど、まあ、うまく言えねえんだ。それでも、皮被り人間とかの、やれ御苦労なこったってさ、むき身で放り出してやろうかって、嘘っぱちのコンクリートひっぺがしちまいたい衝動みたいな、そういうの。そういうののところにざっくりくるようなもんが、文字んなかか踊り出してきて、おれだってあんがい悪くない気分になるってわけ。

われわれの不幸の一切は年がら年中何がなんでもジャンでありピエールでありガストンであり続けなきゃいけないことからきてんだ。われわれの身体、ありふれた落ち着きのない分子が変装したこの身体は、持続というおそろしい茶番劇に絶えず抗ってる。彼女らは消えてだちまいたいんだわれわれの分子たちは、大急ぎで、宇宙のかなたへ、この娘っ子たちは!彼女らはただ「われわれ」であること、見込みのない駄目人間でしかないことが辛いんだ。勇気があったらドカンと一発やってるんだけど、どっこい毎日衰弱してくばかり。われわれの馴染みの責苦はここに、まさに自分の皮膚ん中に、われわれの高慢さとともに原子として閉じ込められてんだ。

 それでももう、悪くない気分の一日のうちたった六秒だか七秒とか、いくらでも先があった気分というのも霧散してさ、かといって、おれときたら、たぶん後ろをふりかえってもなにもないんだ。過去にはなにもない、ふりかえる必要すらないってぐあいで、いや、これからもっとおれの知る少数の顔見知りがいろいろと死んでいったりするんだろうけれども、おれはといえば、なんか気を引き締めたようになって、なんでおれがいちばん最後まで生きてるんだって、そんなふうに思いなおすんだけど、てんでばらばらなんだ。おれのポケットに死が入ってるかどうか、ちょっとみてくれって話だ。

おんなじところに長くいると人も物も慎みをなくし、腐ってことさらににおいだす。

 ただ、下手すりゃおれはもうおれの老いとかいうものを感じているし、どうしようもないクソ気分のまま、開けないまま、でも、朝起きたら会社への道が待ってて、おれはそれを踏み外すのをよしとしないんだぜ。せいぜい川に浮かんだクラゲの観察してて遅刻するくらいの話だ。でも、そんなのももう長く続かないのはわかってるし、もっと絶望でクソまみれのどうしようもない世界に投げ出される、そんな確信はあるんだ。下手すりゃもう、時代とかいうものが、おれの個人の性質だの能力だの頭の中のぐちゃぐちゃだのをどうでもいいくらいに悪くなっていくのかもしれないし、それならそれでけっこうだ。まあ、そんなもんだろう。

それはたんまりある。ないとは言わせない。ただ情けないことにそんなに沢山の愛を蓄えに持っていながらやっぱりみんなに意地悪なんだ人間てやつは。その蓄えは外へ出てこないんだつまり。中にたまったままなんだ。なんの役にも立ちぁしない。みんな中じゃそいつで、愛ではち切れそうなのに。

 それでおれは、ようやくブコウスキーの『パルプ』を読めるわけなんだけど、あれがどこにいったかわかんない。せっかく図書館からただで本を借りてんのに、おれの収納スペースに糞詰まりになった書物の山から崩落から、さっぱり出てこない。つーか、読んでない本だらけだ。けど、この『セリーヌの作品1』、高坂和彦訳の、装丁も真っ黒で悪くない本はそんなかに放り込んでおけない。そこんところはクッソ残念で、だって、これってたとえばなんか十冊、おまえの十冊を選べって言われたら、ぜったいに入ってくる一冊だからだぜ。だからおれは、なんかあれやこれやの下手な解説もできねえし、感想らしい感想を書いたのかどうかわかんねえけど、それでもいくらか緊張して、軽すぎるフランパンのことについて書くよりは緊張してタイプしてんだ、本当のことなんだ。こんなんとっくに読んだぜ、むしろおまえ読んでなかったのかよ、ってやつもいるだろうけど、もしあんたが読んでないなら、読んでみても損はねえよ、本当のことなんだ、まったく。

☆彡

……ここにブコウスキーの言及があった。引用の引用をしておく。

 学問したいのなら、カール・マルクスは読むな。カチンカチンに乾いたクソにすぎない。どうか精神(スピリッツ)を学んでくれ。マルクスプラハを駆け巡った戦車にすぎない。プラハでのこんな手口にどうかだまされないでくれ。なにはさておき、まずセリーヌを読め。歴史始まって以来最高の作家だ。もちろん、カミュの『異邦人』もだ。ドストエフスキーでは『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』。カフカの全作品。無名の作家ジョン・ファンテの全作品。ツルゲーネフの短編。フォークナー、シェイクスピアは除外する。とりあわけ、ジョージ・バーナード・ショウは絶対に入れない。ショウのものは、現代を描いた、でたらめな大ぼら作品で、信じられないほど政治と文学をごちゃ混ぜにした、まさにクソ味噌文学に他ならないからだ。もっと若い作家で、ショウが舗装した道を歩き、必要とあればショウの尻まで舐めそうな作家で思いつくのはヘミングウェイだが、ヘミングウェイとショウとのちがいは、ヘミングウェイは初期にはいくつかいい作品を書いたが、ショウは最初から最後まで完璧にばかばかしく、つまらないダボラ作品しか書かなかった点だ。
チャールズ・ブコウスキーブコウスキー・ノート』