もしおれがフランクルの『夜と霧』を読んだら

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

「ただ一つのことを君達に忠告する。それはひげを剃れ、ということだ。できれば毎日だ。何でもよい、俺はガラス片でやっている。あるいはひげを剃ってくれる者に最後のパンの一片をやれ、そうすれば君達は若く見え、頬はたとえひっかき廻したようでも血色がよくなる。病気になるな。また病気のように見えさせるな。生命が救かろうと思うならば、たった一つだけ方法がある。それは労働が可能であるという印象を惹き起すことだ。君達が一寸したつまらない傷や靴ずれで跛をひくだけで、もうおしまいだぞ。誰か親衛隊がそれを見つけ其奴の傍にくるように合図し、そして翌日はガス室行きは受け合いだ。……

 おれがV.E.フランクルの『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(霜山徳爾訳/新装第15刷)をひと通り読んで、いちばん頭に残ったのはこの箇所だ。著者より一週間ほど先に収容所に入った男が語った言葉だ。ライフハックになりうる言葉ってのがあるとすれば、こういうものに違いない。「ひげを剃れ」。「労働が可能であるという印象を惹き起こすことだ」。
 Arbeit macht frei―「働けば自由になる」。強制収容所の入り口にあるフレーズだ。おれは似たフレーズの「都市の空気は自由にする」の妙な直訳調が好きなので、「労働は自由にする」としたいところだが、違う意味にもとれるしあまりよくない。まあそんなことはどうでもよろしい。どうでもいいんだ。ただ、強制収容所の、あるいはその跡地の内側から、この現在の資本主義社会とかいうものを眺めるとき、この標語は決して鏡文字になっていないだろうと、そんな風に思う。だから、おれは最初の方に出てくる、上の忠告が一番有用な気がして、あとのことはあまり頭に入ってこない。おれは働くべき社会で働いていて、しかしいずれ自死か路上か刑務所かの三択を迫られている、そのことばかり考えて生きている。強制収容所の中ではなく、ここで。Arbeit macht frei―どう発音すればいいかわからない。
 「ひげを剃れ」。よし、おれはガラス片どころか、替刃の安いことに定評のある貝印の4枚刃でひげを剃ってる。毎朝だ。ただ、顎のところにさして意味もなく無精髭のようななにかを残している。これは大丈夫か? そもそも左耳の耳たぶに一つ、軟骨に二つ開いた三つのピアス穴はどうなんだ? これは「労働が可能であるという印象」を邪魔するものではないか? いや、むしろ「ライター、あるいはDTP従事者、デザイナー、エディトリアルデザイナー、リライター、Photoshop職人、ウェブサイトのディレクター兼コーダー、校閲者、カメラマン……なにか自分でもわからない)ですよ」というハッタリには見えないだろうか? 風邪をひいたせいでなかなか染められず、まったくプリンになった頭髪はどうだ? やはりいけない。本当の洒落者風には見えない。
 いけない、風邪というのもいけない。「病気になるな、また病気のように見えさせるな」。まったくだめだ。おれは2種類の向精神薬と、それぞれ1種類の抗鬱剤睡眠導入剤、α・β遮断剤なしでは生きていけない。おまけに眠る時はスリープスプリントを装着しないと、翌日はナルコレプシーのように意識が落ちる睡眠時無呼吸症候群者だ。「強迫性障害摂食障害」と言われたダイエットで落とした体重から元に戻る気配もなく(もっとも、基準的には理想体重なのだが)、少しの自慢だった自転車のロングライドとも一年以上おさらばしている。脚の筋肉は削げた。洋式便座に座れば髀肉の嘆。「もうおしまいだぞ」。
 労働は自由にする。労働に向かないものはなんとなる? おれにあるのはわずかばかりの恩赦願望。宝くじに当たりはしないか。働かなくて済むようにはならないか? だからおれは、毎週自動的にtotoを買っている。4等ならあたったことがある。4等は人生を自由にしない。
 しかし、また、おれにはいくらかの好奇心もあるだろう。おれの理想の死に方は、寂れた地方競馬場のスタンドの片隅で、万馬券を握りながら眠るように死ぬことだが、じっさいのところはこういうあたりだと想像している。

そして俺は、いつかの冬の日、すぐそこの寿町に転がっているところ、役人に投げつけられた乾燥米の袋を開ける力もすでなく、うつろにパッケージの文言を追って、「水で戻すという手もあるのか!」とか、すごく下らない驚きの中で死んでいったりすれば、人生及第点と思うのだ。

『孤独のグルメ』を読む - 関内関外日記(跡地)

 人生及第点とは、おれもなかなかポジティブな言葉を使えるものだ。まあそんなものだ。
 …
 ……いくらなんでも、強制収容所で生か死かをさまよった人間の手記を読んで、あまりにもひどい感想、連想、妄想だろうか。ああ、はっきり、正直言えば、著者の言うところの「人生が何をわれわれから期待してるのか」というあたり、一回こっきりで生死を賭けた選択すら曖昧な(死ぬときは死ぬんだよ!)、そんな人生の中で、「何」みたいなもの、あるいは「苦悩」、具体的な課題、そんなしちめんどくさい問題とはかかずりあいたくない、そっから逃げたい、というのが本音なのだ。一回こっきり? いや、そんなんだったら、ブランキの『天体による永遠』説をとりたいね、くらいの逃避欲だ。
 子供のころ、ぼんやりといつかはなりたいもの、したいことが見つかるんじゃあないかと思っていた。見つかるもんだと思っていた。ところがどうだ。この目的意識のない人間というのは、何歳になっても結局そのままなのだ。「何の生活目標をももはや眼前に見ず、何の生活内容ももたず、その生活において何の目的も認めない人は哀れである」。まったくそのとおりだ。そんなやつは強制収容所にでも入れない限り、変わりはしないのかもしれない。

 もう一度繰り返す。鉄条網で囲われたなかで容赦なく搾取される囚人労働者は、平均してたったの三ヶ月しか生きられなかったのだ。ドイツのハインリヒ・ヒムラー配下の統計学者たちも、強制収容所での囚人について同じような生存期間を挙げている。これを偶然の一致と言えるだろうか。
「出世の道程―ベリヤの横顔・素描」A.アントーノフ=オフセーエンコ

 ごめん、二ヶ月じゃなくて三ヶ月だった。まあいい。変わる前に死ぬ。というか、「鉄条網に向かって走る」かもしれない。いや、勇気がないからそうしていないし、今こうして息をしているのか?  「1万時間の法則」? そんな余裕があるのか。いや、このおれに残されているのか? 吉本隆明は10年といった。おれがひきこもりのニートをやめて10年くらいは経つかもしれないが、なにか一つのことをやっていないので、なんにもなっちゃいない。
 ああ、せめてなにか、嘘でもいいから目的をつくり、白々しい自分探しでもできたらいいのに、おれの脳にはドーパミンだかセロトニンとかが圧倒的に足りてない。だからなにか一つの自信すら持てず、依存症にすらなれない。そしておれは、ともかく引きこもって暮らしたい、遊んで暮らしたい、ただそれだけなのに……。
 せいぜい、この社会を恨み、どいつが今の時代のプレーヴェで、どうやってその豪奢な馬車を爆破できるか夢でも見ようか。ああそうだ、夢にすぎない。おれはアゼフにもベリヤにもロンドン塔最後の幽閉者でない方のルドルフ・ヘスにもなれない。さあ、もうお薬を飲んで寝る時間だ。「君達が一寸したつまらない傷や靴ずれで跛をひくだけで、もうおしまいだぞ」。まったくそのとおりだ。明日の朝は顎髭も剃ってしまうか。おやすみ。


>゜))彡>゜))彡

……本当はこんときに『夜と霧』読みたかったけど、貸出中だった。『夜と霧』は山手の古本屋で買った。ここんとこさんざんベリヤの話とか読んでたので、べつに長い「解説」読んでもどうとも。というか、昔からそうだったな……。

……いや、こんときか。『日本の悪霊』と一緒に鈴木邦男のサイト読んで『夜と霧』読むかとか思ったんだった。