ボリース・ピリニャーク『機械と狼』を読む……読んだといえるのか?

機械と狼

機械と狼

ロームナ地方について、狼の餌と機械について、黒パンについて、リャザンのリンゴについて、ロシア、オロシア、古きルーシの国、モスクワ、レヴォリューションについて、人びと、コミュニストおよび呪術師について、統計学者イワン・アレクサンドロヴィチ・ニェポムニャシチイについて、その他の多くのことについて、一九二三年と一九二四年に書かれた本。

 でした。おしまい。
 ……と言いたくなるくらい、読めなかった。けど、なんとか字面を追った。それを「本を読む」といえるのかどうかわからなかった。

……ああ、ああ、五月、五月の月よ! 五月には雨が降り、ライ麦ができるだろう、寒い五月は豊年の五月だ……夕焼けは真っ赤に燃えた――風に向かって……――
 ――……そしてそれ以上は何も知らなかった――生まれ、生み、生きて死んだ百姓(ムジーク)たちは互いに殴り合いをし、女や子供、家畜をぶんなぐった。女たちはお互いに殴り合いをし、子供や家畜を、さらには百姓たちがウォトカを浴びるように飲んだときには彼らをぶんなぐり、そんなときには髭をつかんで彼らを祭壇に引きずった。

 登場人物表みたいなのもあるけど、はっきり言って『悪霊』のように打線を組めるほど把握できなくて。

百姓たちは年貢を払い、ときおり百姓や若い衆は捕らえられ、兵隊にやられ、彼らは戦争に行ったが、曹長は彼らをぶんなぐるのであった。
「それでもきさまロシア人か、えっ?」
「いいや、わしらはザラーイスク人であります……」
 そして曹長たちは、ロシアの前提たる百姓たちに、いかなる《歴史的前提》も付与することができなかった……

 『機械と狼』。まあなんとなく、相反するもの、あるいは変わりゆくものという予感はある。近代化と下層民の大地、母なるロシアの大地。あるいは、コミュニズムと村落共同体である、とか。そのあたりは興味の範疇なわけだが。わけだが、どうにも編集のアバンギャルドとでもいうのか、わし、それについていけんでのう。

……工場は強力で、ロシアじゅうの大工場の一つとなり、鋼鉄、鉄、石によって成長し、百ジャシャチーナ(約一〇九ヘクタール)に柵をめぐらし、数式や煙突が空をささえ、空に煙を吐き、ダイナモが太陽よりも明るく夜中に光を放ち、鋼鉄は鉄の歯ぎしりをはじめ、サイレンが吠えはじめ、工場は鋳鉄、機械製造工場になった。工場の壁の内側には、煙、煤煙、火。騒音、金属音、金切り音、鉄の軋り音。薄闇、太陽のかわりに電気。機械、規格相違限度、標準規格、キューポラ、マルチン式溶鉱炉、鍛冶場、水圧機、数トンもの重量の水圧機。灼熱の専門工場、旋盤、フライス盤、アイアースのごとき勇者たち。そしてここには溝鉋から出たような鋼鉄の鉋屑があり……

 でも、「やーめた」と放り出さなかったのは、ときおり筆に熱が帯びたのかという、なんか強烈な文章があらわれてさ。

――ロシアよ、左に!
――ロシアよ、前進!
――ロシアよ、ダク足!
――全速力で進め、ロッシーア!

 これは本の裏表紙にも書いてある(「ダク足」の「ダク」は漢字)んだけど、なんかこれにやられちまってな。ダクのあとはギャロップかな? ロッシーア!

……本物のポエジーとされているものは何百年にわたって変わらなかったが、これらの土地はポエジーにならぬものばかりをもっていた。

 たとえば、こんなフレーズだって何回も出てくる。上の工場のやつだって。コピペできる時代に生まれてくりゃよかったのにな。著者は1938年に粛清されている。広い意味でスターリンの犠牲者、というかトロツキストだったのだからエジョフかベリヤかなんて関係ないか。ちなみに、主な登場人物一覧の中に「シードル・ラヴレンチエヴィチ・ラヴレンチエフ」っているけど関係ないか。

――ロシアよ、左に! ――読み書きは工場によって!
――ロシアよ、前進! ――パンは工場によって!
――ロシアよ、ダク足! ――労働は工場によって!
――全速力で進め、ロッシーア! ――友愛は工場によって!

 しかし、著者のボリース・ピリニャーク、ウィキペディアにすらない。『大ソヴィエト百科事典』とかから抹消された作家の末路か(ベリヤはベーリング海になったらしいが、彼の場合はかわりになにが?)。それとも、「同伴者文学」とかいうやつの一人として、もう顧みる必要のないやつとされていたのだろうか。よくわからない。

 でもぼくは――ぼくは彼を眺めていると、彼が哀れになる。ぼくは寂しい気持ちになる。狼のなかにこそ、われわれのロマンチカのいっさいが、革命全体が、ステンカ・ラージンのすべてがある。彼が捕らわれているのは、ぼくには哀れに思える! 彼を解き放つべきなのだ、自由奔放の世界に――一八年のように。

 しかし、21世紀とかいうふざけた現在でもいろいろと論じられていることについて述べられていたりもするんだ。

……ぼくは物の本で読んだが――ロンドンの街に電気の照明が導入されたとき、千人の街灯点火夫がパンのかけらもなく仕事にあぶれた。彼らはこの電気を呪った。電気が彼らからパンを奪い取ったんだ! 機械は機械を生み、都市を、鉄道を、工場を、軽工業を生み、空は煙や摩天楼におおわれ、地面にはアスファルトがふりまかれ、石炭や石油が吐き出される。これは人間に幸福をもたらすというのか? 断じて! ……何万、何百万という労働者たちが、工場と機械によって自分の生命をちぢめ、この人々は列車に乗って疾走し、夜も十分に眠らず、急ぎ、自分を駆り立て、余暇もない。

 千人の街灯点火夫(というものもあるのか!)のうち七百人は死に、三百人は新しい事業を思いつき地下鉄を掘り始めて生命を縮め、数万の辻馬車御者のうち千人はあたらしい事業をおもいつくが……、やはり死に死に死んで、生き残ったものも余暇のない……「野蛮人が復活しているのだ」と。

 「それが資本主義です。まったくもってそのとおり、ロンドンの労働者、街灯点火夫たちは飢えはじめました。しかし、われわれの目的は、まさしく、彼らを飢えさせぬこと、かつまた、まさしく、街灯から街灯点火夫たちを解放することにほかならない。われわれは人間の労働を解放せんと欲しているのです。これが社会主義なのです。……

 って、誰に誰が答えてるのか把握してないけど、そうなのかよ。

 ……千人の人々が機械に、電気にとってかわられたことで、はたして客観的な労働価値が増加したでしょうか。それとも減少したでしょうか? 増大したのです、なぜならばこの千人は新しい価値を創りだすことができるからです。資本主義は彼らを舷外に投げ出したが――、われわれは彼らに、その天職に応じて労働を与えるのです。が、もし彼らに合った労働が見つからなければ、その場合われわれが作りだした価値を犠牲にして、彼らを養うのです。かくて、彼らが自由の身になるであろうこと、これこそが社会主義の根本目的です……われわれはそれに向かって進んでいます」

 この「われわれは彼らに、その天職に応じて労働を与えるのです」のところを、イノベーションなんたらで、新分野に自然と需要が生まれて雇用の流動性がどうのとかいうと新だかなんだか自由主義みたいのになるのか? ようわからんが。まあ、ただし、たとえばおれのようなやつは「彼らに合った労働が見つからなければ」の「彼ら」なので、死ぬしかないわけで。誰かが養ってくれるという話は聞いたこともないし、おれはもう疲れた。
 ……というわけで、本書はおれの手には負えなかった。だれか賢いやつが読んでくれ。ただ、機械のロマンチカ、ミスティカ、それに相反するかもしれないロシアの大地、狼、呪術的なもの、大地女神についてわさわさとなにかがある気配のする、そういう本だとは思った。そんなところだ。

>゜))彡>゜))彡>゜))彡

……P.K.ディックの「タイヤの溝掘り職人」というのもすごいと思ったが、「街灯点火夫」というのもすごいな。「物の本」というのはディケンズらしいが、それがなんなのか私に教養はございません。ロッシーアー!