スピノザの小さな本を

 長田弘の詩の中に「スピノザの小さな本」という言葉があった。
 その詩の終わりに※『スピノザの世界』上野修という注釈がついていた。調べてみると最近の新書だったので、おれも小さな本を読んでみようと思った。

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)


 「仏心は不生にして、霊明なものに極まりました。不生な仏心、仏心は不生にして霊明なものでござって、不生で一切事がととのいまするわいの」。
 おれがスピノザの小さな本を読んでいると、後ろで盤珪禅師がなんか言う。おれは無視する。無視するが、カラスが鳴けばカラスが鳴いたとわかる。犬が鳴けば犬が鳴いたとわかる。
 「彼らも我々も、我々の惑星のすべての住人は、運命が惑星の有為転変の連鎖の中に指定した時と場所の囚人として、再生する。我々の永続性は、惑星の永続性の付属物なのだ」。
 また別の声がする。
 「私は決して自分自身の楽しみを求めたのではなかった。私は真理を求めたのだ。ここにあるのは啓示でも予言でもない。単にスペクトル分析とラプラスの宇宙生成論から演繹された結論にすぎない。上記二つの発見が我々を永遠にしたのである」。
 ああ、岩波文庫デビューおめでとうございます、ブランキ先生。
 「つーか、おまえ、やっぱりわりと評価の高い入門書でも哲学だめなんだ?」
 「あ、やっぱりわかる? ついてけねえの。読んでても、神即自然とか言われるとよ、どうしてもいい加減な仏教回路が開いたりしちゃうんだよ。だいたい、三角形のなんたらの和がどうたらとか、そもそも算数できないし、スピノザ、ダメ、ぜったい!」
 ……でも、「神と世界をゆるしてやること」みたいな言い回しはちょっと好きでしょ。まあ、好きといえば好きなんだけど。ただ、神様は必要なのかな。おれが異端審問官だったらアウト→ででーん→タイキックだ。

 事物を偶然としてでなく必然として理解すること。それは、その必然性が紙の永遠なる本性の必然性そのものであると理解することに等しい。理性は非常に一般的な仕方ではあるが、このことを示唆してくれる。万物は自然の永遠なる法則に従って生じ、それ以外に現実的な存在はない。だからすべての事物は必然的であって、別なふうに産出することはできなかった。

 ブランキはヴァリアントが生まれるといっている。メランコリーの中に終わるわけじゃあない。スピノザも宿命論に終わるわけじゃあないみたいだ。一瞬が即永遠であること。天体によるか、神によるか。なんの話をしているんだ。
 おれは後日、図書館でこの新書よりさらに薄い本である『知性改善論 』を手にとってペラペラめくってみた。なにも言わずに棚に戻した。おれはエチカもペチカも知らない。それを知ろうとするためにえらく時間がかかるなら、熊田千佳慕の眼でより小さいものを見ていたい。

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……この中のなんていう詩か覚えていない。

……なんか文庫版になっていて思わず買ってしまった。なんど読み返しても妙に心に呼びかけるものがある。
盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1)

盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1)

……今回読み返そうと思っていろいろひっくり返したがでてこなかった。旅にでも出てしまったか。
タイムクエイク

タイムクエイク

……なんか関係あんの? さあ?