笠原和夫『「妖しの民」と生まれきて』と『映画はやくざなり』を読む

「妖しの民」と生まれきて (ちくま文庫)

「妖しの民」と生まれきて (ちくま文庫)

映画はやくざなり

映画はやくざなり

 『破滅の美学』につづいて、『仁義なき戦い』の脚本家である笠原和夫の本を二冊読む。関係ないが、小笠原和夫という食品衛生分野の本を書いた人がいて、検索すると出てくる。珍しい一致だとは思うが、食品衛生はそれほど興味ないので読んでみようとは思わない。
 『妖しの民』(と以下略す)は、自らの出生から映画の世界に飛び込む寸前までの自叙伝といったところか。どんな家に生まれ、どんな親にどんなふうに育てられたかわかる。どこかしら、おれ自身と父との関係に似ていないわけでもなく、いずれおれも骨になった父に涙を注ぐのかどうか気になるところではある。
 まあいい、海軍での体験なども書いている。『仁義なき戦い』が生まれる伏線にもなった大竹の海兵団での体験だ。ちなみに、おれの父は広島育ちで、それも大竹の出身だった。ひどくガラの悪いところだったと聞かされている。父は、「早稲田時代に偶然地元のヤクザの息子である同級生に東京で会い、不義理をしたから怖くて帰れん」とよく言っていて、ガキ大将自慢、全共闘自慢の一種と思って聞き流していたものだが、さてどうやら。
 まあ父のことはいい。戦時中の回顧。

 ……戦後の映画や小説、テレビなどで、狂気染みた愛国少年軍国主義者が登場したり、反対にイミシンな反戦平和論者が良い役で描かれたりしているが、そのどちらも日常社会のなかではひとりとして見たことはなかった。

 民衆はむかしもいまも、自分たちの日々の暮らしだけを愛し、信じ、その余のことは御座なりに遣り過していただけであった。

 ここに笠原の民衆、大衆観ちゅうもんがあるんだろうな、と。おれは戦時中を生きていたわけでもないが、たぶん狂気じみたのもイミシンなのもいたんじゃあないかとは思うが、大多数が「日々の暮らし」にあったっちゅうのは、そういうもんかもしらん。
 こんな人間観もおもしろい。

 「人類に尻尾がないのは、ちぎれるほど振ったやつだけが生き残ったからだ」
 という西洋の笑い話があるそうだが、およそこの世で尻尾を振らずに地位の安泰を得たのは、畏れ多いことだが歴代の天皇だけではないだろうか。

 それで、学校じゃ「よく話しあえば分かり合える」といって尻尾の振り方を教えないから、狭い日本逃げ場なくいじめや自殺が起こるんだ、みたいなこと言っててさ。笠原は尻尾の振り方について、中学時代には達人だったと書いている。
 しかし、尻尾が失われたせいで、人類のコミュニケーションというのはわりと面倒くさいことになったんじゃないかなんて思ったりするんだが、どうだろうかね。陛下はどう思う? 
 海軍での体験ではこんなことを書いている。

 とにかく、よく物が盗られるのだ。

 それで備品等が足りないと困るから、別のところから盗り返す。

 これには偵察、哨戒、斬り込み、迅速なる撤退という夜襲戦法そのものが適用される。むろん単独では出来ない。日本海軍が夜襲とか奇襲を得意としたのも、こういう伝統があったからだろう。

米軍が恐れた「卑怯な日本軍」―帝国陸軍戦法マニュアルのすべて

米軍が恐れた「卑怯な日本軍」―帝国陸軍戦法マニュアルのすべて

 こんな本もあるようだし、日本陸軍もそうだったかもしらん、などと勝手に想像する。著者はこれに鍛えられ、映画の世界に転じてからもギャラを取りっぱぐれたことはないという。

……海軍に行って良かったと思うのは、それだけである。
 いったい、「海軍」ってなんだったんだ?

 とはいえ、正式に日本の敗戦が伝えられたときは泣いたという。

……いまさら号泣するほどの愛国精神などなかったのに、生理的反応とでもいうのか、とにかく涙が止まらなくて泣きつづけた。私の一生のうちで、こんなに訳も分からずに泣いたのはこのときだけである。

 さて、実戦経験のない少年兵にとって、ほんとうの戦争は戦後にはじまる。廃墟となった東京、その大空襲の死者を弔う水中塔婆が無数に林立する様子を見る。

 哲学の「虚無」とか、仏教でいう「空」とかの意味とはまったく別の、強力な還元剤によって漂白されてしまったような白い思いしか私にはなかった。「白」というのもはばかられる、あらゆる思念が脱色された「無色」というしかない状態だった。
 その「無色」はいまも続いている。どのような思想、どのようなイデオロギーにも、私は加担することはできない。「反戦」とか「反核」とかの呼び声を聞いてうなづいてみても、私のなかのそうしたものの信念はまことにあやふやなものである。そうした呼びかけの主体になりきれないからである。ある声の主体になるということは、、ある場合、自分や他人をも抹殺してしまわなければいけないほどの強暴な存在になることであり、それほどの行動の決意がなければ、火炎の中で絶命していった死者たちの霊に対応する答えにはならないのだが、その勇気さえも、叢立つ水中卒塔婆の前では阻喪されてしまうのである。人間の営為と無力と不毛だけを思い知らされたのである。

 長い引用になったが、ここにはなにかしらがあるように思えてならない。もう、どんな話だったかも忘れてしまったが、野坂昭如の『マリリン・モンロー・ノー・リターン』(本の方)も真っ白な世界へのなにかがあったっけ。なにかかわかない。そして、戦争の体験も「無色」の状態も体験したことのない(無職になったことはあるけどな!)おれが、なにかの思想やイデオロギーに加担したりできないなにかと関係あるのかないのか、まあさっぱりわからんのだが。かといって、うまいもん喰ってマブいスケ抱くといった望みもあまり持たん。なにかが育たず馬齢を重ねてきたのか、あるいはスポイルされたのか。
 と、そして『妖しの民』の後半は、戦後の混乱期から映画の道へと歩みゆくところで終わっている。米兵相手の連れ込み宿で働く話など、そのまま渋い映画にでもなりそうな気もするが、そういう映画は大衆に向き合わない「映画に生活を懸けていない人たちの道楽」の対象にこそなれ、といったところだろうか。とはいえ「木挽町のパリ祭」は悪くない。ラーメンが獣臭い世界が描かれている。セリーヌだ。
 『映画はやくざなり』の方は、『破滅の美学』とも内容的に重複が少なくない。三島由紀夫が死に「重しがとれたような解放感を覚えた」とか。そして、映画会社での脚本家としての生存戦略について。会社の言いなりになって、それしか作らない人間は結局どこか軽んじられるから、当たらなくてもたまに骨のあるところ、つまりは「自分の仕事はこれだ!」というのを見せつけておくのが鉄則であるとか。まあ、これをサラリーマン世界に置き換えたりして、部隊もとい舞台を現代に移せば、ビジネス週刊誌のネット版で押井守がなにか言ってるような、そんな話かとも思う。
 とはいえ、笠原プロ中のプロの脚本家である。

 わたしは脚本というものをしばしば交響曲に譬えたくなる。ことに「仁義なき戦い」のような群像劇、集団劇のホンはなおさらだ。つまり、部分部分にさまざまなメロディがありながら、通して聞き終わった時に、細部のメロディを超越した何がしかの残響を聴衆の心に伝えるシンフォニーのような脚本がわたしの理想なのだ。映画において、残響を響かせるためには、きっちり起承転結が整っては駄目で(起承転結が整うと「これでおしまい」にしかならず、残響が鳴り響かない)、結の部分がわずかに(美的に許される程度に)開かれていることが望ましい。

 なるほど、そういうものか……といっても、おれには思い当たるフシがない。まず交響曲をロクに聴いたことがないというのもあるが、このあたりは今さら意識しようとしても無駄なのだ。今からサッカーを観ようとしても、その機微を知ろうとするには遅すぎる。それと同じ事で、何千本と映画を観てきた人間に備わる回路というものは、三十過ぎてからじゃ遅いのだ。そしてそれは、おそらくあらゆる分野の仕事なり、趣味なりに通じることだろう。おれにとってそういうものがあるかといえば、まったく無いといっていい。なにか一つ、なにか一つあれば……と、気づいたときには遅かった。無念。
 というわけで、本書の最後に記されている「秘伝 シナリオ骨法十箇条」なども、映画の道を志す若人、観る玄人にとっては唸らされるものかもしれないし、おれにしても「そういうものなのか!」と思ったところで、頭のなかにはおそらく残らず、今後映画を観るにしても、その回路が動くことはないだろう。少し残念である。
 とはいえ、おれにだって好きな映画はある。生涯ベストテンを挙げろと言われれば出てくるものもある。

 ある仕事の席上、その年のキネマ旬報ベストテンで一位になった「櫻の園」(平成二年)のプロデューサー氏と言葉を交わすことがあり、わたしが、
 「あの映画は、出来の良し悪しはともかく、山谷の労働者は見ないよな」
 と言うと、かれは、
 「ああ、山谷の労働者に見てもらわなくても結構なんですよ。どうして見てもらわなくちゃいけないんです? 彼らに向けて作っていませんから」
 と宣った。私は吃驚した。
 映画は、どんな貧乏なひとでも(どんなに大金持ちでも)、これは面白そうだと見に来てもらえて、彼らを感激させ拍手させて帰ってもらう、というのが理想であり、映画会社の人間というのは、そういうものを目指して大衆映画を作ってきたはずであった。それが、作る側が、
 「見てもらわなくてもいい」という態度になっている。このことは、作り手の意識以上に、映画を支える地盤の大変動を窺わせた。わたしたちのように、メジャーの映画会社をバックに(つまり、おおぜいの社員と社員の家族の生活を賭けて)、大きな不特定多数の観客層をめがけて映画を作るという時代は、もう終わろうとしていた。新しい時代に、わたしのホンはそぐわないだろう。

 『櫻の園』(平成二年)は、昼夜逆転生活を送る中学か高校のころの俺が、たまたま深夜のテレビで見てぶち抜かれた映画だった。おれに向けて作られたのか? それが今じゃ、山谷ならぬ寿町近くの「貧乏な人」になっているのだから皮肉なものだ。というか、映画高くて見られなくね? というのはともかく、おれは「個別の戦闘で小さな勝利をあげる」ゲリラ戦にやられたということだ。もっとも、「アメリカ映画にドラマが作れていない」と言われても、おれには見る回路がないからようわからぬ。正直なところ、漫画やアニメにしたって、ようわからん。
 さて、骨法十箇条はというと。

  1. 「コロガリ」……サスペンス、展開の妙。「役の出」の大切さ。
  2. 「カセ」……、主人公の宿命、運命。
  3. 「オタカラ」……代えがたく護るべき物、獲得すべき物。
  4. 「カタキ」……その名の通り敵役。
  5. 「サンボウ」……ドラマの正念場、その地点、中心点の芝居。
  6. 「ヤブレ」……破、乱調。失敗、危機。
  7. 「オリン」……涙をさそう場面。
  8. 「ヤマ」……山場、見せ場、クライマックス。ここぞとばかりのボルテージ。
  9. 「オチ」……観客の予想通りに終わるか、予測に反しながらも満足させるか。
  10. 「オダイモク」……作り手の「切実なるもの」。思想、情念、美意識。

 ……まあ、まとめが間違っていたらおれの責任。というか本を読め。しかし、「ヤオイ」の語源は「ヤマなしオチなしイミなし」というが、これの最後の三つに当てはまるような気がしないでもない。また、「◯◯の書き方」的な本、あるいはシナリオや物語の類型、作り方的ななにかとももちろん合致するところも多いだろう。ただ、著者はこう書く。

一番大切なことは
 骨法などに捉われて、自分の「切実なもの」を衰弱させてはならない。

 そうだ、なんとなくだが、おれはこの脚本家の「切実なもの」を幾らかは感じることができたんだ。たぶん、そういうものだ、たぶん。あとは映画を観るだけだ。そうじゃなくちゃ話は始まらない。まあ、家で、だけどな。
>゜))彡>゜))彡

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……Blu-rayは出ないのか?