眠れないほどおもろしく、そして悲しい『滝への新しい小径』を読む

滝への新しい小径 (村上春樹翻訳ライブラリー)

滝への新しい小径 (村上春樹翻訳ライブラリー)

小説というのは、時間のある人間のためのものなのだ。
―「解題」村上春樹

 「小説のような詩もあれば、詩のような小説もある」。いつだったか……すなわちまだ同居していたころに、父がそう言ったのを覚えている。そういうものなのか、と。
 おれは一時期レイモンド・カーヴァーをよく読んでいた。あるいは、村上春樹の訳したものを、かたっぱしから読んでいただけだったかもしれない。ただ、レイモンド・カーヴァーの詩集は買わなかった(そのころはすべて買っていたのだ、本を)。翻訳された詩というものがどういうものなのか、どう読めばいいのか、わからなかったからだ。未だによくわからないが。
 おそらくは、おれはレイモンド・カーヴァーの短編小説はあらかた読んでしまったのだろう。ときおり思い出す。たとえば村上春樹が話題になってちょっと経ったあとなど。そして、今のおれには図書館で本を借りるという、金を使わないで本を読む方法が身についてしまっている。おれはレイモンド・カーヴァーの晩年の詩集を借りた。
 「小説のような詩もあれば、詩のような小説もある。そうなのか。おれにはよくわからない。ただ、『滝への新しい小径』は詩集なのだ。ただ、詩のような小説、であるかもしれない。その逆かもしれない。あるいはそのどちらでもないのかもしれない。そんなことはどうでもよろしい。ただひたすらに引きこまれる魅力的な言葉がそこにはあって、おれはすっかり引き込まれてしまった。
 どのくらい引き込まれてしまったかとあるていど客観的に言えば、おれには5mgで素直に効いてくれるはずのマイスリー10mg分以上だ。頭がすっかり起きてしまって、次から次へとページをめくり、また読み返し……結局は眠りがやってくるのだが。
 臆面もなくいえば「死」と「眠り」は必ずやってくる。レイモンド・カーヴァーにもやってきた。おれが読み始めたときにはとっくに亡くなっていたはずだし、おれも知っていたはずなのに、どうにもこの本を読んで「レイモンド・カーヴァーが死んだのか」という実感が湧いてきた。それは、パートナーであるテス・ギャラガーの序文、そして村上春樹の解題も読んでのことだが、それにしたって。
 それにしたって、なんだというのだろうか。よくわからない。いくつかの詩は、レイモンド・カーヴァーに健康な時間が残されていたのならば、すばらしい短編になっていただろうと思う。村上春樹もそう言ってる。それは惜しい。一方で、ミニマリズムならミニマリズムとやらの行くところまで行ったんじゃないかと、そんな気もする。「奇跡」、「手紙」、「不埒な鰻」、それにおれが好きなのは「かろうじて」、それに「レモネード」。
 そして、「残光」を読めば泣けてくる。ああ、やんなっちゃうな、驚いた。
 おれはいつも、こうして、このようにしてだらりだらり、のんべんだらりと、何時までも時間のある(と思い込んでいる)人間の、きりのないたわ言を書き連ねる。だけど、ほんとうのことをちょっぴり明かせば、一刺しで人を殺せるくらいの言葉がほしいと思っている。ほんとうに研ぎ澄まされた言葉にはそこまでの力があると信じている。いや、べつに殺さなくったっていいんだ。でも、そんなふうに思うときもある。それは詩のようなものか、詩でないけれど詩のようなものか、おれにはわからないのだけれど。

>゜))彡>゜))彡>゜))彡

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 (中公文庫)

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頼むから静かにしてくれ〈1〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

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愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)

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大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

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……まあなんでもいいけれど、中公文庫の腕くんだ写真は好きだな。