死に向かって、淡々と―レイモンド・カーヴァー『滝への新しい小径』を読む

 

滝への新しい小径 (村上春樹翻訳ライブラリー)

滝への新しい小径 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

読んでいたようで、読んでいなかった、レイ・カーヴァーの詩集。癌におかされ、その最後の日々を短編小説でなく詩に注ぎ込んだ、レイ・カーヴァーの遺作。どこか淡々としていて、それでいて自らの人生を慈しむかのようでもあり、ああ、悲しいな、と思う。まだ、五十歳だった。

彼の人生の遥か彼方にいる人々とか、これまでに会ったこともなければ、

これから会うこともないであろう人々に向かって手紙を書いていると、

そして「イエス」とか「ノオ」とか「ことと次第によって」とか返事をし

許諾の、拒絶の理由をいちいち説明していると、時折憤怒の念が勢いよく燃え上がったが、それもやがてすうっと消えていった、こんなことって

果たして大事なのかな? 何かそこに意味があるのかな?

―「ひとつくらい」部分

カーヴァーの、若い日の詩との出会いも収められている。薬の配達の仕事をしていて、その配達先の蔵書家の部屋で「ポエトリー」という雑誌を初めて目にしたという話。持ち主の老人から「その本を持っていってもかまわんぞ、坊主」と言われた話。

……私はそのときには本当に何も知らない子供だった。でも今だって、その瞬間のことにはうまく説明がつかない。簡単に理屈をつけてかたづけてしまうのは不可能だ。その瞬間に、私が人生においてもっとも激しく必要としていたものが――それをみちびきの星と呼んでもいい――こうもあっけなく、こうも気前よく私の手にひょいと渡されたのだ。その凄い瞬間にいささかなりとも匹敵するような出来事には、それ以来いちどもお目にかかっていない。

―「ポエトリー」についてのちょっとした散文 部分

カーヴァーは短編小説の名手、いや、本人にはそぐわない言い方をすれば巨匠といってもいいのだが、その初期衝動は詩なのであった。そして、人生の最後に詩を選んだ。そのことが伝わってくる。「散文」とタイトルにある詩、なのだけれど。

最後に、彼が最愛の人と過ごせたことについて、ひとつの詩をまるまる引用しよう。

ハミングバード

―テスに

 

僕が夏だなと口にして

ハミングバード」という言葉を紙に書いて、

それを封筒にしまって、

丘の下のポストまで持っていくところを

想像してください。その手紙を

開くと、あなたは思い出すことでしょうね

それらの日々のことを、そして僕がどれくらい、

もうどれくらいあなたを愛しているかということを。