ハワード・スーンズ『ブコウスキー伝 飲んで書いて愛して』を読む

 

この日記の読者の方からのお便りで(みんなもっとお便り送ってくれてもいいんだからね!)、「チャールズ・ブコウスキー好きならスーンズの『ブコウスキー伝』いいですよ」と教わった。ブコウスキー好き人がブコウスキー好きの人にブコウスキーについての本をすすめるのだから、それはいいものだろうということで、読んでみた。

とはいえ、ブコウスキーの代表作、詩集でないものは、だいたいが自叙伝みたいなものだ。それらはだいたい翻訳されているし、もちろんおれは読んでいる。というか、おれにはブコウスキーの詩のよさというのはあまりわからない。原著を買って読んだりしてみたが(おれは英語が読めないのだけれど)、やっぱりピンとこない。ただ、ブコウスキーの自叙伝的作品にはやられた。ものすごく影響を受けた。

で、第三者が書いたブコウスキーの伝記とはどのようなものだろうか。著者は1965年生まれのイギリス人ジャーナリスト。ブコウスキーと面識があるわけでもない。だが、なんだろうか、この本の、まさに見てきたような語り口は。

 だからこの伝記を読んでいて「ちょっと待てよ! いったい全体どうして作者はこんなことまで知り得たのか?」と、思わず疑念が生じたとすれば、その答は「取材・出典ノート」にあるというわけだ。

「まえがき」

こう作者が述べるくらい、徹底的に調べ上げたのだ。関係者にインタビューをし、当時の手紙を集め、雇用記録、徴兵記録、前科の記録などの証拠を集め、なによりブコウスキーの書いたものを読み……。その結果、「取材・出典ノート」は小さな横書きの字で30ページ以上もある。ありきたりではない狂気の本といってもいいかもしれない。

とはいえ、やはりブコウスキーが自分の人生をわりとけっこう正直に書いた、というのも事実なのである。

第一章の冒頭からこうある。

 ブコウスキーは自分が書くものの大部分は実際に自分の人生で起こったことだと公言していた。本質的に彼の著作とはそういうものなのだ。すなわち彼自身とアメリカ社会の最底辺で彼が体験したことの正直で偽りのない記述。彼はそれを正確な数値で言い表そうとすらした。彼の著作の93%は自叙伝で、残りの7%は「何らかの手を加えたもの」だと彼は語っている。ブコウスキーが作家として並外れて正直だったのはまず間違いないことだとしても、彼の人生に於けるさまざまな事実を細かく検証していってみると、彼は読者にとって自らをよりピカレスクな存在にしようと、自己申告している以上に実人生の物語に”手を加えて”いたのではないかという疑問を抱かされる。

ちなみに、93%発言の注を「取材・出典ノート」で見てみると雑誌『ハスラー』の1976年掲載のインタビューだという。その次のページで、ドイツで生まれたときにつけられた名前が「ハインリッヒ・カール・ブコウスキー」だったとあるまで、すでに11個の注があるので、まあ本当に徹底して調べたものだし、信頼してもいいんじゃないだろうか。というか、もう2ページだけでブコウスキーが公言していた「私生児だった」ということが覆されてしまっている。いやはや。

とはいえ、あれだ。もう一気に全体的な話になってしまうが、おれはブコウスキーが、自身をよりタフに、よりピカレスクに、より破滅型の人間のように「盛って」書いていたということは薄々気づいていたといってよい。薄々でもないか。

まずひとつは、「ポスト・オフィス」の労働に長年従事していたという事実だ。それはもう『ポスト・オフィス』に描かれているのだが、ブコウスキーは長く働いた。まずそれが一つ。

それよりもっとおれがこれについて確信を抱くのは、ブコウスキーが死ぬまで競馬をやり続けたということだ。これは同じく競馬狂いのおれだから言えることと思ってほしいが、競馬を長年続けられる人間というのは、破滅型の人間の対極にあるといっていい。たしかに晩年のブコウスキーはけっこうな金持ち(BMWを小切手一枚で買ってしまえるくらいに)ではあった。とはいえ、どん底の時期も競馬を続けて、続けて、金持ちになってもすっからかんになるほど賭けたりもせず、負けたりもせず、続けたのだ。真に破滅型の人間であるならば、競馬……ギャンブルという強烈な誘惑に負けて、あっという間に終わりを迎えるはずだ。本書によればブコウスキーは「競馬で食う」を実践したこともあるらしいし、当然失敗するわけだが、そこで「お馬で人生アウト」とはならなかった。

こんな話は、前にも競馬について書いたときに書いたことがあるような気がする。競馬場にいる老人というのは、老いても身を滅ぼそうとする愚か者どころか、したたかに、実直に、生き続けることができた人間なのだ。そうでなければ、とっくにいなくなっている。勝ち続けてきたきたわけではない。しかし、決定的には負けなかった。破滅しなかった。これといった治療法も薬もない病的ギャンブリングに陥ることもなく、なんだかんだで生きてきた。それができるのは、真面目なやつだけだと思う。

だからおれは、「ブコウスキーはかなり真面目な人だったんだろう」という、そういう確信があった。むろん、ナイーヴで内気な、卒業パーティの会場まで行って、外から眺めるだけだった、そんな少年時代の話を読んだうえでもあるが。

というわけで、本書にたまに出てくる「実はけっこう堅実だったエピソード」は、おれのそんな確信を裏付けるものとなった。まあ、「たまに出てくる」であって、酒に酔って大暴れして生きてきたのも間違いない。ひでえエピソードのほうが圧倒的に多い。とくに今の価値観からすると、女性にとって許しがたい人間と言えるかもしれない。まあ、中年以降はとくにモテたんだけれど。

でもなんだ、おれの競馬人生論なんかよりも確実に言えるのは、ブコウスキーは書くことをやめなかった。書いて、書いて、書きまくった。それをいろいろなところに送りまくった。晩年にはMacintoshを使ってまで書いた。1920年に生まれた人間がだ。それがブコウスキーの証だろうと思う。

最愛の恋人を亡くし、何ヶ月もはげしく落ち込んだこともあった。自殺への強迫観念に捉えられ、ナイフや剃刀を自分の目の届かないところに隠してしまうほどだった。その頃を知る詩人はこう言う。

「飲んで留置所行きを繰り返しながら、そのうち死んでしまえばいいと彼は絶対に思っていたはずよ。行きていくのはあまりにきついことだった。書くことと飲むことだけに頼って、彼は何とか生き延びることができたんだと思うわ。そう、本人にとっては冗談なんかじゃなくてね。引き延ばされる自殺、それが彼の全人生だったのよ」

はたしてそれが全人生だったのかどうかはわからない。でも、そんなときでも書いていたんだ。それがすごいんだ。もちろん、飲んでもいたけれど。

酒を飲むアメリカの詩人といえば、レイモンド・カーヴァーもいる。おれはカーヴァーも大好きだ。カーヴァーが詩の中にブコウスキーの名前を出していたことは知っている。けれど、カーヴァーがブコウスキーの朗読会に顔を出し、そのあと一緒に飲んだ(自宅に呼んで酔い潰そうとした)こと、カーヴァーが「君は恋を知らない(チャールズ・ブコウスキー、詩の朗読の夜)」という詩を書いていたことは本書で知った。詩も掲載されている。まあ、出典が1991年の「ガーディアン」紙のインタビュー記事では知る由もない。

「そうさ、彼がわたしのことを詩に書いてくれたあの夜、わたしは、当然の成りゆきだったけど、すっかり酔っぱらっていたんだ。教授たちや若僧の大学生たちに向かって喚き散らしていたよ」と、ブコウスキーは語っている。「何てこった、わたしはあの夜歌っていて、それをカーヴァーに見られたのさ」

自分が好きなものと好きなものが実はつながっていたことをあとから知る。これはなかなかの喜びだ。おれの好み、センスの方向性というものに、なんらかの一貫性があるように思える。悪くない。

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ちなみに、おれがカーヴァーを知ったのは当然のように村上春樹経由ということになるが、翻訳家として村上春樹の盟友ともいえる柴田元幸ブコウスキーの遺作小説『パルプ』を翻訳している。その『パルプ』の翻訳を「日本翻訳史上の最高傑作」と激賞したのは高橋源一郎であり、高橋源一郎はおれがもっとも好きな小説家だ。競馬狂いである高橋源一郎は『競馬漂流記』という本で「ブコウスキー族」と題する一編を書いている。

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柴田 ……ブコウスキーを訳していて、「ああいう汚い世界を書いているから、スラングをいっぱい使っているんでしょう」と訊かれることがあるんですけど、考えてみると、ブコウスキーにはほとんどスラングが出てこないんですね。

高橋 たしかにないですね。すごくわかりやすい。

柴田 わかりやすいですね。スラングというのは仲間内の通り言葉で、特定の小さい閉じた共同体のなかでしか使われないものですよね。ブコウスキーはどこの共同体にも属さないからスラングは使わない。友だちがいないとスラングって要らないんですよね(笑)。

 

そんなことはまあいいか。しかし、友人と言わずとも、ブコウスキーと意外なつきあいが、みたいな人も多い。作家として成功して、作品が映画化されたりすると、ハリウッドや芸能界との付き合いも増える。マドンナすら出てくる。もっと意外なところでは、こんな話。

 コーヒー・スタンドで、ブコウスキーはコミック本の卸売り業者のジョージ・ディカプリオとしょっちゅう出会った。彼はハリウッドとウェスタンの反対側の角にある敷地内に妻のアーメリンと一緒に住んでいて、まだ幼かった彼らの息子は後に大きくなって、映画スターのレオナルド・ディカプリオとなった。

して、生まれたばかりのレオナルドがはじめて迎えたクリスマスの夜、ブコウスキーはディカプリオ家にいきなり訪れる。もちろん酔っぱらっている。

「なあ、ほんの数インチの隔たりで人は楽園に行けないんだよな」と、ブコウスキーは謎めいたことを言いながら、クリスマス・ツリーや雪景色のクリスマス・カードに囲まれ、赤ん坊のレオナルドが幌付きの揺りかごの中で安らかに眠っている場面に乱入してきた。

ジョージは祝祭に関するなにかかと思っていたが、耳の遠いジョージの母がブコウスキーになんと言ったのか聞くと、こう答えた。

「そうさ、ふーむ、ほんの数インチ……」とブコウスキーがまた言い始める。そして大声で喚いた。「それが自分のちんぽこをしゃぶらせないようにしている!」

レオ様、英才教育受けすぎや。ちなみにこの話は著者がジョージ・ディカプリオにインタビューして聞いた話。

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ちなみにおれはディカプリオの出ている映画を見て、ちょっとブコウスキーを思い浮かべたりした。

 

まあ、こんなところでいいだろうか。あ、しかしあれだ、ブコウスキーブコウスキーについて書けなかったことがある。自分の死と死後のことだ。

……「もうどこにも移動させることができなかった。医者たちは彼のからだのいたるところにカテーテルを挿入していろんなものを注入し、彼を生かし続けたの。ひどかったわ! とんでもなかった! でも彼は勇敢なことこの上ない戦士だったの」1994年3月9日の午前11時55分、ブコウスキーはこの世を去った。73歳だった。

ブコウスキーは癌がもとで亡くなった。ものすごく不健康で、酒ばかり飲んでいたのに、長く生きたように思える。酒ばかり飲んで、アルコール中毒で入退院を繰り返した(けっきょく酒はやめたと思うけど)レイモンド・カーヴァーは50歳で死んでいる。ブコウスキー、人生の中盤から名声と金を手にして、まあ、大往生といえば大往生だったんじゃないのか。

 ブコウスキーは絶えず一匹狼であり続け、多くの親友を求めたり必要としたりはしなかったが、彼が死んだことで心に大きな穴がぽっかりあいた男たちや女たちは数多く存在した。

そして、ブコウスキーアメリカ文学の世界に、独自の存在としてあり続ける。

……恐らく彼は自分の本をあまりにも多く出版しすぎてもいた。確かに詩集はあまりにも多すぎた。しかし彼が残した作品群、六編の長編小説、数多くの短編小説、映画の脚本、そして数えきれないほど多くの詩集を丁寧に読んでいけば、決して妥協することのない断固たる彼個人の哲学が全作品を貫いていることに気づかされる。その哲学が、あたかも異議申し立てするかのように、訴えかけているのは、骨折り仕事や規則の押しつけ、虚偽や見せかけに対する拒絶、そして人が生きていくことはしばしば惨めであさましいことで、他人に対して冷酷な仕打ちに出ることもしょっちゅうあるが、その人生は同時に美しくもセクシーで愉快なものになり得るという事実を認めるということだ。

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ブコウスキーに興味を持ったら、とりあえず下の作品を読もう。この順番で読もう。いや、順番なんてどうでもいいか。