チェーホフ『桜の園』ほか

桜の園/プロポーズ/熊 (光文社古典新訳文庫)

桜の園/プロポーズ/熊 (光文社古典新訳文庫)

 レイモンド・カーヴァーの訃報が他国で「アメリカン・チェーホフ」だの「アメリカズ・チェーホフ」だのと紹介されたと知って、「おれ、チェーホフ読んだことない!」ってなったの。で、チェーホフって言ったら『桜の園』のイメージで、『桜の園』といえば、映画『櫻の園』(つみきみほが出てた方!)であって、おれの今のところの人生ベスト5に入るものなわけであって。
櫻の園【HDリマスター版】 [DVD]

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 そんなわけでもあってというのに、元を知らねばこりゃいかんとなって、急いで読んだりしたという次第。いや、「四幕の喜劇」はやっぱり役者が演じるのを観るものだろうが。
 ……で、あらすじ知ってるわけなんだけど、なんだかこのねえ、おれがおれについて最も書きにくい部分を刺激されて困った。すなわち、鎌倉の家を手放すことになり、一家離散するときのことだ。ああ、夜逃げのように。おれは急に庭のカキノキだのウメだのアカマツだのライラックだの、あるいは玄関先のツツジだの、やたら生えてきて困るタケだのに愛着を感じ、窓から見える景色に感傷的になったり、父親を殴ったり、いろいろの手続きで一足早く出たがために、一番ひどい状況を弟に押し付けてしまったり、その負い目があったり……。しかしなによりも、金のないために家を手放す、家がなくなるという、そのこと!
 って、これもまたロングで、遠くから眺めてみれば喜劇にすぎないのかもしれない。チェーホフは『桜の園』をあくまで「コメディ」だとしたという。解説によるとね。それで、ナボコフ曰く「現実がときに陰鬱に見えるとすれば、それは近視のせいだ」ってさ。
 そう考えてみると、『桜の園』の登場人物たちも妙な連中だし、言うことやること滑稽だ。そして、深刻な話をしているときに、スッと外すあたりとか、笠原和夫の言ってたアレかとかおもったり(違うかもしれないが)。それでもって、なにかこう、囚われたものから自由になっていく、失う段になって大切だと気付かされ、それでも失って、なお新しい希望のようなものがある、明るさがある。このあたりは『闇金ウシジマくん』のフリーターくん編だぜ。まったく。

 という具合で、『桜の園』。併録されていた『熊』はどこかで映像として見たような気がするが、思い出せない。

チェーホフ・ユモレスカ―傑作短編集〈1〉 (新潮文庫)

チェーホフ・ユモレスカ―傑作短編集〈1〉 (新潮文庫)

 あとはそうだ、レイ・カーヴァーがたとえられたところの短編だ。これが短編というか掌編、サドン・フィクションのようなものもあり、めっぽう面白い。しかしまあ、「馬のような名字」のくだらなさよ(褒め言葉)。おれはぼんやりと『桜の園』しか知らなかったから、このユーモレスクはまるで知らなかったね。え、馬のような名字ってなんだ? そりゃブジョーンヌイだろ。って、違うか(←ソ連邦元帥セミョーン・ミハーイロヴィチ・ブジョーンヌイにちなんだブジョーノフスカヤ種という馬の種類があるという、ロシアン・ジョーク)。
 そうだ、『ユモレスク』のほうの解説にこんなこと書いてあったな。メモしておこう。

 チェーホフはユーモア週刊雑誌の寄稿で生活するようになってから、印刷されて一行何コペイカのひどく安い稿料に堪え、注文を逃さぬように、人々に読まれることだけを心がけて書きつづけた。そして、「簡潔に短く書くこと、笑いによって読者を引きつけること、機知を働かせて話を展開すること」の三ヶ条を堅く守った。とりわけ簡潔に書くことは、笑いの効果を最大限にあげる芸術的表現のためにも不可欠だった。そうしてそれは、生涯にわたっての彼の文章規範でありつづけた。

 セミョーンとかだらだら書いてる時点であかんわ。ほな。

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